ALSが与える悟り


過酷なALSの中で何を思い何を感じ生きているか、ある患者さんの手記です。



「ALSに罹った男」                  
 山田 悟 stryamada@ybb.ne.jp
筋萎縮側索硬化症(ALS) 全身の筋肉がやせてなくなってしまい、手足が動かせなくなる。それだけではなく、舌や喉のまわりの筋肉もやられるので、食べたものを飲みこむ嚥下動作も難しくなり、最後には胸の筋肉や横隔膜も動かせなくなる。発症してから3・4年で亡くなる。(「神経内科」小長谷正明著 岩波新書)

一部

一九九五年末六一歳のとき、左手の指の動きに異常を感じ、岡崎市民病院で診察をうけた。名古屋大学付属病院で筋電図の検査をおこなった結果、運動神経伝達系の過酷な病気で治療方法がない、進行を止める薬さえないと宣告された。指の動きに違和感があるだけで日常生活に支障を生じていないこともあって、そのような奇病が私に降りかかった現実感をもたなかった。仮にこの難病に罹ったとしても、治療の方法がないとのことから、将来のことを予測し憂えても何にもならない、成り行きに任せ、今できることでベストを尽くせばよいと考え、当時はじめていた有機栽培の野菜づくりに熱を入れた。

当時、野菜作りに熱を上げたのは次の経緯があった。九三年末、40年余勤めたT社を退職して、生まれ育った岡崎へ帰った。定年後の計画が多くあったことから、父が残した150坪ほどの畑を負担にさえ感じた。畑作業は私に残された時間を空費するものと思ったからだった。とはいえ、日頃からの考え、与えられた情況・環境に素直に順応したらよいとの思いから、畑仕事を始めることにした。敗戦の間際、小学校の運動場が芋畑になったとき、敗戦後の食糧難の頃、家族で僅かな空き地を開墾して野菜をつくったときの他、鍬を持ったことがない。まず図書館にある家庭菜園の本を次々と読み始めた。

このなかの一冊、「有機農業」J・I・ロディル著 薬照照雄訳 人間選書発行を読んで私の野菜作りの心構えがかわった。彼の主張する近代農業への危機感に啓示を与えられただけでなく、彼の経歴に触発させられた。電気器具会社を興して経営し、ニューヨークで劇場を所有し同時に脚本を書き、かつ自ら演出したりした彼が、ハワードの「農業聖典」に感化され、ペンシルバニアに60エーカーの土地を購入し、自ら有機農業を実践した。

現在の世の中は、カネさえ払えば何でも望みのモノが手にはいる。しかし、既製品の有機肥料を使っていては、私が百姓をする意味がない。毎日が日曜日である私には、時間だけはたっぷりある。ロディルが実施したように自分で堆肥つくりから始めることにした。しかし、堆肥にする原料など簡単に手にはいらない。はじめに、産業廃棄物である畳から藁を取り出すことを思いついた。畳屋から古畳を畑まで運搬してもらい、縦横に麻糸と、ナイロン糸で縫いつけられた畳を解体した。堆肥にすれば僅かになってしまう藁を取り出すのは、時間のかかる面倒な作業で、まともに考えたらできる仕事でなかった。

九四年秋になって、EMによる有機農業の推進活動をしているTさんを知り勉強会に出席した。一回あたり100キログラムほどの糠と各25キログラムの魚粉、菜種油粕と、EM1号液、糖蜜を使いEMボカシをつくった。肥料は農協の指導員から車で25分ほど離れた額田町の山間にある成瀬養鶏場を紹介された。自分で鶏舎から鶏糞を袋詰めして乗用車で運ぶ、1回15キロくらいを袋に詰め一度に15袋くらい、1日に4回運んだこともあった。

ロディルはミミズがいない畑で育つ農作物は本来の作物でないという。化学肥料で育てられた作物は、いわば、私たちがビタミン、ミネラルを無視して、蛋白質、脂肪、含水炭素などの栄養素だけを摂取するのと変わらない。農薬を使用して害虫を防除できるが、同じ地球上の生物である人間に全く無害と言えない。昆虫たちと体力がちがう、だから影響はないといえても、全く、永久に関係がないと言い切れるものでないだろう。

私たちは保存性、食味、見栄えを良くする理由から、多くの食品添加物を口にしている。健康を維持するため食物をとる本来の目的から外れ、便利さと感覚的な欲望を満足することに惑わされている。何がベストであり、ベター、そして悪くない・毒にならない・今のところ毒とはいえない、商業主義が優先する社会のもとでこの三つの言葉の使い分けができなくなっている。ことによると、老人には関係がない、子ども・成人・母胎には影響がある、を区別する必要がある気さえする。

特定の害虫、すなわち昆虫にだけに耐性をもつ遺伝子組み替え食品がある。安全性を科学的に証明するデータがあるという。だが、科学データは現在の科学水準により安全性を証明するだけ、むしろ、危険である原因を発見できなかったことでしかない。そしてこれらのデータは、作為的でなくても立場、思惑によって歪められることがある。生産者が決して口にしない、農薬をたっぷり使った野菜があるという。厚生労働省が認可し、大企業が販売していて、その後、禁止された農薬の例を私たちは多く知っている。

現代のように科学技術と商業主義が高度化してくると、TV、新聞、インターネットから流される情報、大企業の製品、政府が公表したからといって信頼できるものでない。銀行に預金したからと言って安全と言えない時代である。現在ほど自己責任、自己確立が必要な時代はない。私たち一人ひとりが、冷静に情報を選択できる知恵をもたねばならなくなった。

必要なことは、情報を集めること、知識をもつことでない。現在の社会のなかで発信される情報と論理から正しい情報だけを選びとることは難しい。溢れる情報に惑わされない能力をもつことは、理屈を度外視して常識を働かせること、自分が「当たり前でない」と感じたことについて、自分で考える感性を育てることでしかない。

それは、自然科学の世界だけのことでない。政治家が収賄罪の疑いで国会答弁する。彼らは、金銭の授受が犯罪に抵触していないことを誇らしげに語る。問われることは、法律の問題でなく、政治家としての品性の問題である。問題は彼らを責めるだけでなく、企業から政治資金を集めなければ活動できない体質自体である。社会はギブ・アンド・テイクで成り立っている。金銭を受け取りながら何も還元しない方が、むしろ非難されるのが常識である。高級官僚が企業に天下り、政治献金が当然のこととされる社会で、まともな政治ができるはずがない。金権体質をもった政治制度を民主主義といい、誇らしげに語ること自体に誤りがある。

退職後の計画は、今まで読めなかった本を読む、音楽を聴く、旅行をする、友達と会って酒を飲み雑談する、余裕を見つけて地域のボランティア活動をすることだった。だが、人間は他人がムダと思ったとしても、目標を持って何か自己実現すること、創造的・生産的な何かをしないと生きがい、自分が存在している価値を見失ってしまう。この自己実現の手段として、化学肥料、農薬を使わない、自然の恵みをいっぱいに受けた野菜作りを始めることにした。

野菜作りを始めてまず発見したのは、「人は自然と共に生きている」ことだった。それは観念として知ることでなく農作業のなかから肌をとおして感じることができた。私はT社で生産設備の自動化機器・自動生産システムの電気設備設計をしてきた。設計はすべて論理で組み立てられる。どの本を見たとしても技術的な内容の違いを発見することはない。計画どおりに装置が動かない、データに間違いがあるのは、私たちが設計を誤った理由しかない。設計の成果は、すべて、私たちの能力と努力にかけられていた。

この私の経験からみると、家庭菜園の解説書のなかから、本により異なる説明があったことに驚いた。野菜づくりは、電気技術とちがう、気象条件・地域性・土壌条件など多くの要因を通して、先祖からの知恵を引き継いでいる、画一的でないのは当然のことだった。農作業は人間の能力だけに依存した主体的・能動的な働きでない、自然の恵みをいただき、あるいは脅威を謙虚に受け入れながら人が働く営みでしかない。人は自然のなかの一部でしかない、私たちは、自然の恵みのなかで生かされているにすぎないことを肌で知った。

次の驚きは、効率性・労働生産性の悪さだった。自家で消費し知り合いにあげ、なお余剰になった作物を放置しておくのは可哀想、自然の恵みに礼を逸していると感じて、農遊館(市の第三セクター 契約者が自分で値決めし農作物を出荷する自由市場)に、わけぎ、ほうれんそう、レタスなどの作物を朝早くから抜き取り、整理し、袋詰して出荷した。手にするのは、パートタイマーが手にするほどの金額にしかならない。経済原則によれば、肥料代、土地にかかる税金、労働に要した汗はムダな出費ということになる。スーパーの野菜売り場で買ったほうがはるかに便利で経済的である。しかし、会社にいた頃に必須の考えであった効率・収益を中心とした労働と、全く違った別の世界があることを知った。

「荘子」(天地篇 金谷治訳注 岩波文庫)に次の話がある。子貢が道を歩いているとき、一人の老人が水瓶をかかえて水を畑にかけていた。子貢が「一日に100畝も水をかける装置がありますよ」というと、老人は「仕掛けからくりを用いる者は、必ずからくり事をするものだ。からくり事をする者は、必ずからくり心をめぐらすものだ。からくり心が胸中に起こると、純真潔白な本来のものがなくなり、純真潔白なものが失われると精神や威信や本性のはたらきが安定しなくなる。精神や本性が安定しない者は、道によって支持されないね。わしは「はねつるべ」を知らないわけじゃない。道にたいして恥ずかしいから使わないんだよ。」と答えた。

現代の科学万能の時代を築き上げた西欧文明の源は、「旧約聖書」創世記で、神が「われわれに似るように、われわれのかたちに、人をつくろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配させよう。」と仰せられたとの言葉から端を発し、デカルトに始まる近代哲学によって、人間が自然を支配できるという観念が生まれた。生き物を慈しむインド人、老荘思想・道教・儒教を育てた中国人、アニミズムによる霊魂観をもつ日本人のなかから自然を征服する自然科学が発達することはありえなかった。

人々の望みは、幸せに暮らすことである。幸福感は、肉体的な欲求、衣食住が充足していることを条件として、心の内から湧き出す充足した感情である。西欧文明は、衣食住を充足させるだけでなく、肉体的な欲望を満足するため、荘子がいう「からくり」を作りつづけてきた。そして、私たちは彼らの知恵を学び、現代の自然科学の恩恵をうけてきた。能率のよいからくりは、私たちの生活を便利に、快適にしてくれた。だが、私たちに時間の余裕を作ってくれた筈のからくりが、次のからくりをつくるため、なお忙しい生活を強いている。あるいは、暇になった時間は、目先の快楽を満足させるだけに費やされるようになった。私たちの生活を豊かに、快適にするはずの「からくり」は、大多数の人たちを一度に殺すより大きな能力をもつ一方、地球を汚染し地球上の生物を死滅させる新な問題を投げかけるようになってきた。

人が「幸せに暮らしたい」という目的がどこかに追いやられて、手段でしかなかったはずの「からくりづくり」は、より大きな欲望を満足させる目的にすりかわってしまった。経済的に恵まれ、物質的に豊かな生活への欲望は、満たされたときには欲望でなくなり、新たな欲望が湧いてくる。満たされた快楽は、次にはより大きな、強い刺激を求めることになる。現代の文明は、豊かに暮らしたいという人間がもつ傲慢な暴力で、聖書でいう海の魚、空の鳥、家畜、地のすべての自然を支配し屈服し隷属させるばかりか、自らの生存さえ脅かされようとしている。人間がもつ良識、人間が本来もつ思いやりの本性は、システムに所属する途端にシステムのなかに埋没し、倫理観を失い無機質化したシステムが怪物になって猛威をふるいだし、社会を、そして世界を動かしている。私たちは、便利で・能率がよい・経済的に優れているものへと、しゃにむに駆り立てられ、モノの豊かさを得るごとに、私たちの心の豊かさが失われている。

人間とは何であるか、私自身の実体を見出す必要を感じた。サラリーマン時代とがらりと変えた考え方、能率・効率にこだわらない、損・得にとらわれない、人の噂・世間の流れにこだわらない私だけの過ごし方、生き方の原点として、有機栽培による野菜づくりを選んだ気になった。第二の人生の生き様を象徴しているといってよいこの野菜作りを簡単に断念しないぞ、と考えていた。

 野菜つくりに傾注したからといって、プロに負けない野菜をつくる熱心さはなかった。初夏になり草が生えてきて処置しきれなくなると、福島正信の「自然農法」を援用して「雑草も自然のなかで生きている。仇のように引き抜くことはない」と言い訳し野菜と雑草を共存させて、のんびりと音楽を聴いて過ごしていた。

九六年秋、肢体が不自由である妻を、特別養護老人ホームにショートステーで預かっていただき、三週間アメリカへ行った。シカゴ、ボストン、ニューヨークで町を見物したのは、それぞれ一日だけ、その他は、昼は美術館か博物館、機会あるすべての夜は、コンサートホールかオペラハウスに行き、私流の気ままな旅を楽しんだ。当時の身体的な障害は、カッターシャツの一番上と袖のボタンが止められなくなった、レストランで左手が使いにくい程度であった。

病気と診断されてから、今まで関心を持っていなかった健康法の本を読みあさった。西洋医学は、モグラ叩きとおなじでしかない、飛び出たモグラを的確に叩くことに注意が向けられている。現代社会の間違いは、人間の身体を肉体と精神に分割してしまった。肉体を物体としてしか捉えない、肉体と精神で成り立つシステムとして考えない、人間が宇宙のなかで生きている神秘さを切り離したことにある。

ALSにたいする治療薬、進行を止める方法さえないという。むしろ、副作用を併発する薬を飲むより、自分がベストを尽くして納得する治療を選択し、自然治癒力に期待して、あとは、神が決めたといってよい運命を素直に受け入れればよいと思った。呼吸法・内気法・外気法・食物の大切さ・生活態度の重要性について学んだ。私たちが口にしている食物が、いかに自然の恩恵から離れ、人間の手で細工し歪められているか、食べ物を摂取する方法が間違っているかを知った。ある医師は玄米と海草と小松菜だけ食べておればよいと言った。玄米に切り替え、添加剤入りの食品、肉はほとんど食べなくなり、野菜は自家菜園でとれる無農薬・無化学肥料による野菜をたっぷり食べるようになった。

生活習慣を変えた、健康飲料水を飲んだからといって、身体の異常が回復するわけがない。当初は、左手の人差し指の動きに異常を感じていただけであったが、やがて、指全体、腕に広がりよほど軽い荷物でないかぎり持てなくなった。左手が利かないことから、シャツの釦がかけにくいなど日常生活が不便になってきたが、実生活は右手でカバーすることで支障を感じなかった。

当初は私が一〇万人に三・四人しかいない病気に罹ることはない、と自己暗示にかけていたが、左手の指の異常が指全体に広がり、握力が減り、やがて肩から上に挙がらなくなった。ALSが現実の問題として私に降りかかったことを悟った。しかし、治療法がないといわれることから、じたばたしない、将来どのような障害がでてくるか考えない・意識しないことにした。将来に直面する事態を予測し備えるとしたら、やがて訪れる現実の厳しさを目にしなければならない、冷酷な現実を冷静に注視し対策を立てる自信がないことから、束の間の甘美さを味合うことにした。将来への不安と恐怖は意識的に無意識の暗黒の世界に抑圧するように努めた。

九七年夏、友人の勧めから国立中部病院で診察を受けた。病名は「筋萎縮側索硬化症」、左手が不自由になってきて、改めて過酷な病気であることを宣告された。左腕の機能が減退して、日常生活に支障が生じてきたことから、身体障害者三級の手帳を交付された。恒例の農閑期を利用した秋の海外旅行は、妻が入院したことからできなかった。

成瀬養鶏場から運搬していた鶏糞は、スコップで袋に入れにくい、一袋に入れて運搬できる量が減ってきた。耕耘機の運転は両手でできなくなり、方向転換のときは、左手を使う代わりに体重をかけ、右手の力だけで行うようになった。鍬を持ったとき左手は支えとして利用するだけ、力が入る右手だけを頼りにするようになった。障害の様子は、農作業のなかに顕著にあらわれてきた。

有機栽培の野菜作りを熱心に教えてくれたTさんは、世界救世教の信者でもあった。私の左手が不自由なようす、歩き方が不安定なのを見て心配され、浄霊(一種の外気法、手かざし)をしてくれた。額田の家から岡崎に出たとき、帰りに遠回りし私の家に立ち寄った。

やがて、入会を勧められ、教会に毎日参拝に行くこと、浄霊をいただくだけでなく、他の人に浄霊をすることを強く勧めた。彼が言う、愛を受けるだけでは治療の効果がでない、人にも与えなければならない、という考えは十分に理解できた。だが、信仰心をもっていない私がパワーをもっていると思われない、その私が浄霊をするなど相手の方を侮辱しているように思えて実行できなかった。

Tさんが浄霊をすると、手の平から遠赤外線が放射されている暖かさを感じた。だが、時々受けるだけからか治療の効果は感じなかった。彼は私が教会に熱心に行かないこと、九九年二月にネパールへ遊びに行ったことを「病気が治ってから行くべきだった。」と怒った。私が彼の意に沿わなかったことから彼は私から離れていった。

別の機会には、N君の紹介で豊川市まででかけて手かざしの治療を受けた。一度は治療師の教師が住む福岡市まででかけた。治療の効果がみられないこと、治療者が「治療を受けなければ半身不随になる」という言葉に嫌気がさしてやめた。

現代科学を信奉する私たちには、手かざしで病気が治るなど容易に信じることができない。だが、手かざしで病気を治す団体・個人は、世界救世教の他にも多くあり、イギリスではロイヤルタッチという方法があったという。その治しのメカニズムを証明できないとしても、癒されている人たちがいる事実を無視できない。

石原慎太郎の母親の病気が、現在の世界救世教の手かざしにより治ったという(「法華経を生きる」)。確かに創始者である岡田茂吉氏は、霊能者としてのパワーがあったにちがいない。だが、彼が信奉した神を畏敬したからといって、その霊能力が伝承されといえない。あとは創始者がおこなった遺徳を飾り立て、信者をきらびやかな巨大な建物で威圧し、形式張った壮麗な儀式で信者を陶酔させているだけの気がする。

新興宗教のみならず宗教というものは、すべて似たようなもの、創始者の意図と全く違った道を一人歩きするものといえるだろう。ことに、組織化され巨大化してくると、ますます歪みが大きくなっていく。親鸞に関する本を読んだとき、彼が浄土真宗の開祖とは決して思えなかった。親鸞が現在の浄土真宗の姿をみたら、さぞ驚愕することだろう。

しかし、その宗教が創始者の趣旨と違っているからといって、めくじりをたてる必要もない。治ると信じる、神に祈りを捧げることによって、体内の活力が活性化し、自然治癒力が増大し回復に向かうこともあるだろう。現代人は、分析的、実証的な科学教育と経済観念により歪められ、自分の心を素直に純化できない、祖先の人たちが自己治癒力を活性化し治った病気が、対症療法による西洋医学でしか治すことができない不幸を背負っている。私はTさんが誤っていると思わない。私が彼の意に沿わなかっただけのこと、彼の好意を十分にいただき感謝している。

Tさんから治療を受けたときKさんを紹介された。Kさんは左官屋さんだが、手かざしによる治療の能力があるのだけでなく、予知能力を備えているとのことだった。始めて彼が手かざしをしたとき「やがて、歩けなくなり、話ができなくなりますよ。」といい、医者が予告する症状の一端を言い当てた。或る日、頭に手かざしをしはじめて「コンピュータを使いましたね。波動のとおりが悪いですよ。」といった。私は当日の朝、3時頃までコンピュータを操作していた。

電磁波、送電線の下・ドライヤー・携帯電話などは、健康に良くないという人がいる。医者に電磁波が健康におよぼす影響を聞くと関係がないという。だが、私が使っていたパソコンは初期に買ったものであるからか、操作していると足にコブラ返しを感じることがあった。私が思っていた電磁波が身体に影響するという思いを、彼が言い当てたのに驚いた。ALSに罹ってから霊の世界の本を読んだ。霊の世界のすべてを否定的に見ることがなくなったし、現在の科学的な考え方だけを信じる気がなくなってきた。

妻は小脳が萎縮し運動神経が冒される小脳変成症であった。岡崎に帰郷した頃、食事の支度は彼女の仕事だったがやがてできなくなり、家事のすべては私の仕事となった。彼女に付き添って歩いているとき、彼女がバランスを崩すと同時に私も転ぶようになった。私自身のバランス能力、踏みとどまる力が失われてきた。自分の将来はともかく、彼女を世話してくれる施設を探すのが急務になっていた。

九八年夏、ようやく妻が特別養護老人ホームに入所できた。ついに自分のことだけ気にかければよい環境になった。気が向かなかったら料理などせず外食すればよい。間に合わせのものを食べればよい。作り出すとすぐ鍋一杯になってしまう。したがって、同じものを続けて食べることになる。この方法は一面、料理が嫌いな私にとって作る手間が省けて便利でもあった。一人暮らしの気ままさと自由な開放感を感じた。しかし一方、決められた時間に起床する、食事のメニューを考える、食事の支度をするなど、生活のなかで決められたリズムを失った。一人暮らしは、自分が必要とされている、自分が果たすべき役割があるという緊張感と目標感を失った。

秋の野菜作りのため肥料が必要になってきたが、成瀬養鶏場から無料の有機肥料を運搬できなくなり、牛糞を購入することに切り替えた。2トン積みのダンプトラックに6車分入れた。左手がまったく役に立たず、スコップを右手で引っ張って、畑一面に牛糞を広げた。耕運機を運転するのがますます難しく、体重と右手だけで運転するようになってきた。右手による畝づくりに苦労した。仕事がだんだんいい加減な仕方になった。野菜づくりができる限界を感じつつあったが、できなくなるまで頑張るという執念でつづける状態になった。

九月末、4週間かけてパリ、ロンドンへ行った。重い荷物を持つのが難しくなったことから、荷物を極力減らし、キャリアで運搬することにした。今回の旅では、体力的な自信を失い郊外に足を延ばす気力がなく、いつもの私だけの旅、昼は美術館・博物館、途中でスケッチを描く、夜はほとんど音楽会、オペラを見に行っていた。ルーブル博物館横の歩道では、縁石を踏み外し肩を直接に舗道上にたたきつけた。腕の運動神経が鈍ってきたので手で支えることができない、よく頭を打たなかったものだ。足の弱さを実感する、左手が不自由だけでなく、右手の指にも異常を感じはじめ、ホテルでキイを回すのが硬く苦労した。地下鉄で駅員が荷物を運搬してくれたことがあった。彼は軽い荷物に手こずっていた私に驚いたことだろう。

九八年になってインドへの旅行に興味を持ち、旅行記などを読み調査をはじめた。九九年はじめに実行するよう考えた。一人旅は難しそうであることから、現地でガイドを雇う考えで計画をすすめていた。インド旅行では私たちと全く異なった生き方、人間の生き方の原点を感じとれる気がしていた。そして、七五年、イタリアから仕事の帰り、航空会社のストライキで行くことができなかったウイーンへ九九年秋に旅行することを考えていた。だが、パリ・ロンドン旅行の経験から海外への一人旅が無理になったことを悟った。

十一月 志摩半島に5日間の写生旅行にでかけた。朝早くスケッチを描いていたら、外気の冷たさから、やがて右手が自由に動かせなくなり、スケッチが描けなくなった。自動車のセルを動かすためキイを廻すことができず、人が通るのを待っていてエンジンをかけていただいた。寒くなると指の力が極度に減ってきた。

九九年二月、S先生の薦めでネパールへ行った。はじめの一週間はツアーに参加した。始めてツアーに参加した海外旅行であった。参加者と友だちになれる、能率よく目ぼしいところに行ける、添乗員の指示に従って行動する気安さはあるが、いつも感じる海外旅行の醍醐味を感じなかった。いつも差し出される料理を、黙って食べさせられている感触だった。バクタプール、パターンは、単独行になって再度訪れた。2度目であるにかかわらず、新鮮に感じたのに驚いた。

ポカラではツアー参加者の個人的な計画に同行して盲学校を見学した。ツアー組が帰った後、N君と一緒にトレッキングコースのひとつの拠点であるダンプスまで、ガイドの腕に支えられて登った。彼の手際よいサポートがなかったら石段から転落していたことだろう。ダンプスで2泊し、ホテル差し回しの車でN君の友達の家があるバグルーンへ行った。父母と兄弟3家族の3軒の家が寄り添って建てられていた。日本に出稼ぎに来ている三男の嫁と子どもを含め、家族全員が助け合って暮らしていた。

N君の希望で県立と思われる病院を訪問した。恰幅のよい医師が応対にでた。廃屋のような建物がいくつかあり、敷地も大きかったが、医療機器らしいものは全く見当たらず、医療設備らしいものも皆無にといってよかった。広い設備のなかで数人の入院患者がいただけで、病院とは全く思えなかった。

バグルーンの友達の家で一泊し、ポカラのホテルに入る前に、運転手の家に立ち寄りお茶の接待を受けた。妻と幼児の3人で暮らす彼の家は、4坪ほどの部屋ひとつだけで、家具らしいものは手製のベッドがひとつあるだけだった。壁から壁に渡された紐にすべての衣類がかけてあった。炊事器具はバーナーがひとつ、脇に水入れなどが並べてあった。食器類は壁面にわたされた棒にきれいに整頓して挿し込まれていた。床は筵状の物を敷き、およそ1/3の土間は赤土の地肌のまま、だがきれいに水拭きされていた。給料が7500円/月と言う彼は、家賃が高いとこぼしていた。N君の友人の家も変わりないが、生活に必要なものしかない貧しさのなかで、きれいに整理されたつつましい人間の営みがあった。
S先生の紹介でカトリック教会へ行き、地元の人たちに奉仕している大木神父に会った。聖書でいうように、そして、マザーテレサが言っていたように「神様は必要なものを、すべて、いつでも与えてくださる。」と言っていたのが印象的だった。政府への開発援助は、上から30パーセントずつ収奪されて、実際の援助にまわる資金は、30−40パーセント程度しかないと話した。私たちの話が終わる頃、目の不自由な子どもを含め、10数人の子どもたちが集まってきた。盲学校でたまたま会った青年協力隊の青年、大木神父といい、私と別の世界に住む日本人に会った。ポカラで二泊し、カトマンズへ帰ってからダーバンへ行き、米粒ほどのエベレストを見て二泊した。

N君が帰ってからナガルコット、塵埃と喧噪の町カトマンズを避け、バグタプール、パタンでそれぞれ二泊した。ツアーの人たちが帰ってからは、脚が悪く行動が自由にできないこともあってスケッチばかり描いていた。町で絵を描いていると子どもたちが集まってくる。子どもたちの目は、愛くるしく輝いている。この輝きが日本の子どもたちからなくなって久しい。一人でいると、いろいろな人と知り合いになる。ヒンズー教の寺院で夕方の祈祷をしているところに入り込んだ。入場を断わられたが他の人に許されて、祈祷をしている人の横でしばらく話し込んだ。テント張りの結婚式場の披露宴に入って接待を受け、ネパールの人たちと会話を楽しんだ。大阪国際空港から荷物を最少限にしたリュックサックを背負い、びっこをひきかろうじて家にたどり着いた。

二月末、国立中部病院へ行った。ALSの末期症状がどれだけ深刻なものであるか、改めて教えられた。身体障害者二級の手帳を交付された。左手が全廃しただけでなく、右腕でも重い荷物10キロほどの荷物を持つのが限度、字を書くのに異常を感じるようになった。
例年のとおり、ジャガイモ植えの準備をした。耕運機の運転は、絶えず体重の助けを借りながら右手だけで運転した。三月始め8キロの種芋を植えた。芽が出てきて土寄せをした。鍬を振り上げる時、左手は触れるだけであとは全く用を果たさず、右手だけでおこなった。だんだん手抜きした、いい加減な仕事になってきた。

三月末には、今までの寒さから目を覚まし、百姓仕事がもっともはなやかなとき、にんじん、ほうれん草、小松菜、レタスの種まきがある。四月末になるとキュウリ、なす、トマト、ピーマン、ししとう、かぼちゃ、すいか、メロン、やがて、さつまいもを定植する時期である。意地になって畑を耕し、いいかげんな畝作りをして定植をした。作付面積は昨年よりかなり減少した。

畑で僅かなことでバランスを失い頭からよく転倒した。眼鏡が吹っ飛び、顔が砂だらけになったことがあった。畑での転倒は怪我がなくてよいが、左腕は全く効かない、右腕の力がなくなったことから、起きあがるのに苦労するようになった。いつも気配りしていたはずなのに、耕耘機の鍬・農具を僅かに外れて転倒したことがあった。転んだ不運を嘆くより、転倒した位置の幸運さを感謝した。

六月になってようやく、日本ヴィパッサナー協会が主催する、一〇日間の瞑想コースを受講した。もっとはやく受講したかったが、協会と農作業のスケジュールが噛みあわず遅れた。この協会はネパールへ行ったとき、ダンプスで同宿したネパールのトレッキングガイドが勧めてくれた。彼は敬虔な仏教徒、ベジェタリアンといっていたが頑強な身体をもち、澄んだ美しい目をしていた。彼の優しい真摯な目を、日本で見ることは難しいだろう。

ヴィパッサナーは、ブッダがその生涯の45年間修行し、また教えつづけた技の真髄だという。ヴィパッサナーとは「物事をあるがままに見る」という意味で、自己観察を通して心のわだかまりを解きほぐし、心に真のやすらぎをもたらし、幸せで充実した生活を送るための簡単な実践法であるという。

一九六九年 ゴエンカ氏がインドで教え始めた。九九年現在、ヴィパッサナーのセンターは、世界中に60以上あり、日本では京都市にほど近い山里にある。コースは受付の翌日朝6時30分から開始され、8日目午前中まですべてのコミュニケーションが禁止され、決められたスケジュール、方法により自己観察の時間を過ごす。コースは国際色豊かで、一回目のときはリーダーがドイツ人、サブリーダーであり通訳は、アメリカの女性、受講者の1/3は外国人だった。

自宅で毎日朝・夕、一時間瞑想を実践することを勧められた。この瞑想をつづけていると、潜在意識に蓄積した汚毒、渇望・嫌悪・無知が根本から揺さぶられて取り除かれ、緊張に満ちた生活から抜けでて、幸せで健康な、そして生産的な生活へと導かれるという。直接的な効果のほどはわからないが、ALSに罹ったのにかかわらず、比較的平穏にしておられるのは、ヴィパッサナーのお陰かと思っている。

瞑想コースを受講した帰り、京都市嵯峨野でスケッチを描いた。T社の健康保険寮に一泊し、翌朝、嵐山渡月橋の直線が思うように描けない、絵を描くのを諦めねばならないときが来たことを悟った。

六月に玉ねぎを収穫した。ジャガイモ掘りをした。備中を持てなくなり、右手だけでスコップを使い、ようやく芋掘りをすませた。左手が用を果たせないため、段ボール箱で運搬できず、バケツに少しずつ入れ納屋まで運んだ。

暖かさを増すごとに雑草が成長してきた。牛糞を畑一面に入れたことから牛糞のなかの種から雑草の芽が吹き出し勢いよく伸びてきた。収穫の時期になり、西瓜だけは床をビニールで張っていたため、雑草が押えられ例年に近い収穫があった。西瓜を片手で持つことができないため、いったんビニール袋に転がして入れて運んだ。大きな西瓜は重くて、自分で切り取り運ぶことができなかった。自分一人で食べるのは少ししか必要ない。多くは知り合いに畑から直接切って持って行ってもらった。

畑は草だらけになった。えんどう豆は全滅した。キュウリ、トマトは草のなかから収穫した。やがて、草が成長するにつれ、足を草にひっかけて転倒する回数が増えてきた。転倒してから起き上がるのが難しくなり、いざりながら起き上がる方法を工夫しなければならなくなった。数本のおくらは、草のなかですっくと立っていた、なす、ピーマン、ししとうが実っているはずだが草に邪魔され、危険になってきたので取りに行けなくなった。意地でもやり続けようとしてきた有機栽培の野菜作りが、ついに不可能になったことを悟った。

病気を宣告されてから、逃れることができない運命、神から与えられたといってよい試練を、嘆いても何の救いにならない、運命を呪っても、自分を傷つけるだけだと考え将来の不安を抑えてきた。百姓仕事ができる、車の運転ができることを救いにしてきた。なお不安を払拭できないとき、ベッドの上で痛みもがき苦しむ人と比べ、痛みのない幸せを感じた。仕事をしただけで亡くなった友人の顔を思い出し、退職後に年金を貰って、自分が好きなように時間を使い、本を読み、音楽を聴いて、生きている感動を味わえる幸せを感じていた。

障害が進行する不安を隠しながら、私がプラス思考で支えられてきたひとつは、自然に親しむ、自然の偉大さを体で味合う、自然の恵みをいっぱいに受けた有機栽培の野菜をつくることを、心の支えにしてきたからだった。言い換えると、能率の悪い、経済的に価値の低い行為だとしても、将来の不安を意地になって、しゃにむに野菜つくりに転化していたといっていい。だが、ついに私が指標とした自己実現、創造的・生産的な唯一の行動を断念する状況に追い込まれた。私は成人してから親の助けを借りず、他人の力を当てにせず、自分の力で生きるものと考えてきた。創造的・生産的な能力を失ったことは、すべて消費的な立場にきりかわることである。人間は自立の能力があって始めて主体性・独立性を保つことができる。私にとって野菜づくりができなくなってしまったことは、今後、ALSの進行にともなって、他の人たちの支えによって生きなければならない、私の主体性・独立性がゆらぎはじめたことを意味している。

筋萎縮側索硬化症(ALS)は、人間の神経系のうち髄意筋を支配する運動ニューロンが侵され、信号が筋肉に伝わらなくなり、手や足、顔などが自分の思いどおりに動かせなくなる。
手足の麻痺による運動障害:箸が持ちにくい、荷物をもてない、手と足が動かせない、やがて、指を含めてすべての動作ができなくなった状態で寝たっきりになる。
コミュニケーション障害:舌の動きが思い通りにならず、ことばが不明瞭になり、やがて話ができなくなる。手や指の筋肉も弱くなることから筆談ができない、キーボード、タッチセンサーなど補助具を使うコミュニケーションもやがてできなくなり、最後には眼球運動や眼瞼運動だけが残される。

嚥下障害:舌や喉の筋肉が弱くなることから食べ物や唾液を飲み込みにくくなる。食物が気管にはいると、肺炎や窒息を起こす。
呼吸障害:呼吸を行う筋肉が衰え睡眠が浅くなる、大きな息が吸えない、疲れやすくなり呼吸数が増える、痰が出しにくくなる、やがて自立呼吸ができなくなる。

自律神経をのぞいたすべての運動機能は失われてしまうが、意識や知覚神経は最後まで正常で、知能の働きも変わらない。(「ALSの患者とご家族のために」アベンティスファーマ〔株〕)
発症してから死亡するまでの経過年数は、人工呼吸器を装着した場合57ヶ月、装着しなかった場合は36.4ヶ月、そして、3年生存率41.2%、5年生存率17.5%であった。(柳澤信夫、国立中部病院・長寿医療研究センター 医長)

今まで理性で自己説得・欺瞞し自己を支えてきた考えが通用しなくなった。理性で抑え込もうとする隙間から、積乱雲が沸き上がりいきり立つように、心の内からでた暗雲が身体全体、今までプラス思考で誤魔化してきた頭脳全体まで覆い隠し、言葉で表現できない不安と怖れに包まれた。はじめて事態の重大さ・苛酷さから逃げることができなくなった。
病状が進行すれば、歩くのができなくなる。人間が病に倒れて最初に屈辱を感じるのは、トイレに行けなくなることだろう。佐藤紅緑は、ベッドに便器を差し入れようとすると「無礼者!」と叫んだ。モラエスは世話する女が大小便の始末に一回いくらと請求したため、最後は糞尿にまみれ自殺した。山本周五郎は死の前日に妻の手を振り払って便所に行く途中で昏倒した。伊藤整は病院で死の2日前まで眼をむいて宙をにらみながらひとりでトイレに行った。萩原朔太郎は最後のお願いだと哀願して、枯木のような身体を便所へ抱えられて行った。(山田風太郎「風太郎の死ぬ話」角川書店、「半身棺桶」徳間書店)

食べ物を口に運ぶこともできなくなる。顔にまとわりつく蝿、腕にかみつく蚊を追い払うことができない。生きるためのすべての動作が自力でできないばかりか、助けを求める声もでなくなり、すべてを他の人たちの気配りと恩恵に支えられて呼吸をつづけることになる。やがて、呼吸することさえ人工呼吸器の助けを借りなければならない。人間としてだけでなく生物として生きる必須の機能を失いながら、人間としての感覚と意識、思考の機能だけが残されるという。

字が書けなくなる、声を出すこと、唇を動かすことができず、キイボードのキイを押すことさえ不可能になる。眼の動きで訴える他にすべての意思表示の手段が奪われたまま、自分の自尊心だけが息づく世界に押し込められる。人から与えられた善意に感謝で答えることができない、人から加えられる侮辱に怒りを表現することもできなくなる。

明るく活気溢れる世界を見ながら、ひとりだけ暗黒の沈黙の世界に閉じ込められる。この人間的な苦痛を逃れるための最後の手段、身動きできない身体で自殺することもできない。これほど残酷な生き様はないにちがいない。あるALSの患者は「死ぬ覚悟はいつもできている。しかし、これから生きることを考えると耐えられない。」といったという。他人に迷惑をかけるとしても痴呆になった方がはるかに幸せであろう。惨めさを自覚しなくてすむ。侮辱にたいして無感性な表情で答えることができる。

人間の生き方、尊厳を説く哲学・宗教書がなんと空虚な、絵空事かと感じた。クリスチャンは、十字架に磔にされたイエスの苦しみを考えよという。これらはALSの末期を自覚した私に何の助け・救いにならない、飽食になれた人が、飢えでやせ衰え一片のパンがない人に向かって、「人はパンのみで生きるにあらず」というに等しい。

手を伸ばすことができない苦しみを健常者の人たちは知らない。恵まれた自分の腕を当然のことと考え、意のまま動かすことができる幸せを感謝することなど知らない。五体満足な人が、忠告・同情・癒しの言葉をどれだけ語りかけても、苦しみを分かち合うことはできない、痛みは本人がひとりで乗り越えるしかない。所詮慰めは、身体障害者の苦しみを知らない異国の国の言葉で語るのと変わりない。

やがて、私の心と身体を覆った暗雲は、予測される肉体的な障害に呪縛された、不安と怖れからくる怯えであることに気付いた。山の頂きに立たなければ、雲海の彼方に見える山の美しさがわからない。谷底の奥深くに転落しなければ、傷つき救いのない暗黒の恐怖がわからない。現在の不安は、将来予測される事態をイメージして怖れおののいている。それは現実に訪れる苦悩を考えず、少女がきれいごとの夢しか見ようとしないのとかわりない。人にとって最大の恐怖は「死」である。いつ訪れてもおかしくない死を、誰もが観念として理解していても、現実に自分の間近に降りかかっていることを意識することはない。この現実の事実を忘れた市井の人たちの鈍感さを学べばよい。

若いときには、女性の前で赤裸な姿をみせ、入浴の介護を受けるなど耐えられないと考えていた。だが今では、介護者の前に裸身の自分をさらけださなければならない現実が、間近に迫ってきた。耐えられない、「死んだ方がましだ」といっていた限界が、どんどん遠のき、深みにずれ込んでいく気がする。やがては、あらゆる恥辱と侮辱をうけながら、へつらいの笑いを浮かべ平静さを装い、その無感性さを正当化しながら呼吸しつづけるかしれない。日頃、「神様から呼び出しがあれば、素直に従います」といいながら、痰が詰まれば取り除くことを涙で訴え、呼吸が困難になれば人口呼吸器の装着を懇願し、死にたくないと泣き叫ぶかしれない。現在の考えがいつまでもつづくことはない。取り越し苦労は役に立たないことが多い。

般若心経の解説書を読んだことがある。一冊読んで解らなくて数冊読んで私が理解した結論は「こだわるな」ということだけ、生活の知恵としては「ケセラセラ、なるようになる。あとのことなどわからない。」の一言だった。現実に降りかかった試練を悔いても、嘆いても後戻りできない、将来への不安を恐れおののいても、どのように展開するかわからない。過去に、そして未来のことにこだわらない、執着しない、状況の変化に合わせて、水の流れにまかせるように逆らわずに生きる、肝要なことは「自分が蒔いた種は、自分で刈り穫る」ことを念頭にいれること、後悔は自分を傷つけることでしかない。

不安と怖れは、理性、すなわち意識で無意識のなかに抑圧できるうちは雷動することがない。だがやがて、この抑圧が蓄積され、地下の巨大なマグマのように膨張し噴出することになる。ここで精神分析者が患者の無意識に鬱積した感情を意識に呼び覚まして治療する知恵から、悩み・苦しみの種を無意識の世界に抑え込まないことを思いついた。

肉体と精神とのあいだの相克を分離すること、私の肉体を客観的にとらえる眼をもつこと、悩み怖れ慄く肉体をもった私を、冷静に認識する新たな私を創造することにした。臨死体験者が魂を浮遊させて、手術されている自分、嘆き悲しむ家族を冷ややかに見るように、肉体から浮遊した私がALSで苦しむ私を眺め観察すればよい。

ひとりの私は、食事ができない、倒れて起きあがる、寝返りさえできない自分の歯がゆさを嘆き、惨めさ・恥辱を感じ苦しめばよい。ときには、加えられた運命の過酷さを呪えばよい。理性・自制など働かせず、人生の舞台上で悲劇の主役になりきって、本能的な苦しみにまかせてのたうちまわればよい。

いっぽう新たな私が観客席から舞台上の理性を失った哀れな男を、冷ややかに突き放して見つめる。舞台上の男が肉体の障害が悪化するにつれ、どのように精神状態が変化していくか冷酷に観察しつづける。医師が患者を見下ろすように、絵物語の巻物をひもどくように、映画のスクリーンを見つめるように、これほど劇的な、残酷で興味深いストーリーが展開していくことはない。

私の人生の終焉は、この悩み・苦しみを客観視できなくなったとき、観客席の私が舞台の上に駆け上がり、舞台の男と一体となり、共に涙を流し苦しみ・悶えたとき、このとき私の理性、人格・尊厳は失われてしまったといっていい。それは、歌劇「パリアッチ」レオンカヴァロ作曲で、主人公の道化師カニオが舞台上の役柄と現実を混同し、妻を殺したこととおなじだ。ベートーヴェンの最後の言葉をカニオが真似たように「喜劇はこれでおしまい」ということになる。その後に呼吸しつづけ、食物を流し込み、排泄しつづけているとしたら、生きている美しさがない。もはや私のアイデンティティが失われ、呼吸する屍でしかない。そのときまでに、自分の運命は自分の意思で決断できるといい。

私は人間に与えられたただひとつの自由は、自らの命を絶つことだと考えてきた。食べ物を得る、衣服をまとう、安全な住まいを確保すること、そして、快楽を求めることは、欲求だけで満足できることでない。対象とするものが存在し、獲得するため労働をする・カネを払う・哀願する・奪い取る行動がともなわなければならない。だが死を選び実行することは、自分の意思で選択できる唯一の自由であり、それは神から人間にだけ与えられた特権だとさえいえる。

人間の最大の不幸は、若くして、人生の喜び・感激・素晴らしさを味あうことなく死ぬこと、やるべきことを残して死ぬことだろう。ことに、幼い子どもたちを残して死ぬほど悲痛なことはない。しかし一方、死の時期を逸することも不幸であり残酷なことだ。子どもたちに疎まれ、他人に迷惑がられ、無意味な延命治療によって生きつづけさせられるほど惨めなことはない。

山田風太郎は「人間の死には早過ぎる死か、遅すぎる死しかない。主観的にも客観的にも、早過ぎず遅すぎず、ピタリといいところで死んだ人があれば、それは幸福な死である。」、そして「死ぬのは本人の地獄である。死なないのは他人の地獄である。」という。自分で死を選択することは、自分の意志で自分の人生の終末を決定し、自分の尊厳を守ることができる、この幸福な死を自らの意思で掴み取ることを意味している。

死は神が決めることだいう。だが、人間の生命は尊重しなければならないという建前の延命行為、人生の蝋燭の火が消えようとしているとき、なお快楽を求め、物欲に駆られ、名誉に執着し、若者の邪魔をして老害をさらしている、あるいは愚痴をいい、運命を呪いながら生きつづけることの方が、はるかに神への背徳であり社会の悪徳と思えられてならない。

ソクラテスは、助命の機会をもちながら自分の意志を貫き、自ら毒杯をあおいだ。キリスト教史のなかで多くの殉教者たちがいる。彼らは彼らがもつ信念、信ずる神に命を捧げる高邁な思想にもとづき死を選んだ。自己の思想を守ること、敬虔な信仰にもとづく死の選択が賞賛されて、自分の意志で選択する死を忌避する理由はなにもない。殉死は自己の尊厳を放棄し、信仰する神の意思に委ねてしまった。異教徒から見れば、自分の思考力を失い邪教を信仰して、尊重すべき命を自ら放棄したに過ぎない。自分の意思で死を選択することは、自己を人としての主体性と尊厳を守るもっとも人間的な最後の手段であるといえる。

自殺は神の意思に反するという非難の言葉は、死を選択した人間の悩みと苦しみを無視し、観客席からヤジを飛ばす偽ヒューマニストの発言でしかない。ヒューマニズムを売り物とするならば、責めるのでなく抱きしめ慰める友であるはずだ。傷ついた友に包帯を巻くことができないのなら、建前の言葉、同情と哀れみの言葉は無用でしかない。建前の言葉しか言えないとしたら、自分の人生を無為に、無感性に過ごしている言い訳、自分が死と対峙しないまま惰性で生き続けている自己弁護に過ぎない。

「葉隠」のなかで山本常朝は、「武士道とは、死ぬことである。生か死かいずれか一つを選ぶとき、まず死をとることである。」(奈良本辰也 角川文庫)といっている。今まで平穏に過ごした生活がつづくことを願い、他人とおなじ幸せを望み、死から逃れ生きつづけることを正当化するから悩みがでてくる。

退行催眠をおこなう心理学者は、輪廻転生の事実を私たちに説明する。私にとって輪廻転生は「ある・なし」を議論する対象でない。「ある」と考えた方が生きているのが楽しくなる、死ぬのが怖くなくなる。「中間生になって初恋の人に会える」と思うだけで胸がわくわくする。「来世はどんな人生を歩もうか」とあらぬ夢をふくらませる楽しみもできる。クリスチャンがいう天国など私には興味がない。永遠に何の不自由、悩みがない国にいる、考えるだけでうんざりする。

人間は中間生になると、裁判官(絶対者・神)から審判を受けるという。私はこのとき「僕は頑張りましたよ、僕の人生はおもしろかった、僕は人生を楽しみました。」と言えるようにしたい。死は私のすべてを失うものでない。私にとって死は、新たな世界に移り住むことでしかない。痛み・苦しみ、頑張りの彼方に楽しみ・喜びがある、切り札は最後までとって置いたらいい。

幸せだった日々を想い起こすから不幸だと思う。幸せな友を見るから自らを傷つけることになる。死を怖れるから恐怖に駆られる。自分から死のなかに飛び込む覚悟があれば、死を突き抜けた向こう側に新たな世界を見ることができる。死を越えた世界に肉体的な苦しみ、心の悩み、侮辱の目と言葉を浴びせられる怖れなどない。死はすべての苦しみと悩み、辱めから解放してくれる。やがて訪れる苦しみを予測して悩むより、いま必要なことは、瀬戸際に立たされたとき、すべてを解決する死を選ぶ覚悟をもてばよい。肝心なことは、「死の選択」を目標として見据えて、今という一瞬だけのことを考えて生きることに気づいた。すると、三〇日ほどつづいていた、身体全体を覆っていた暗雲が晴れてきた。

ここで大きな壁に突き当たった。ALSの末期には、手も指さえも動かすことができない、どのような屈辱を受け尊厳を傷つけられても、自己を守る最後の手段、自殺さえ行使できないという。だが、すべての取り越し苦労をしないことにした。いま生きることだけを考える、死を選択する勇気をもつことで、すべての悩み、こだわり、執着から解放することにした。

人間は精神的な悩み・苦しみに遭遇すると、自己を守るため防衛機制を働かせる。心理学者は、抑圧する、否定する、退避する、投射するなどいくつかの手法を教える。最も好ましい方法は、社会的・文化的に高い目的に昇華することと教える。この昇華のひとつは、不安・悩み・苦しみを絵で描く、歌を作る、仕事に励むなどの創造的な活動に転化すること、そしていま一つの方法は、与えられた試練を神の試みであり、そこに神の大きな愛と理解することである。

精神分析者フロイトは「宗教というお伽話は、情緒不安のもたらした作品で、科学の進歩を妨げるもの」と考えた。だが、大海のなかで今まさに沈む者にとって、分析と実証にあけくれる自然科学が証明する真理など必要でない、掴み取ることができるひとつの木片を必要としている。科学は私たちに快適な暮らしを提供してくれるが、人間にとって根元的な幸せ、生き方を教えてくれるものでない。事実・真実を知ることより、理性を錯覚にゆだねる方がはるかに甘美で幸せなことがある。

私が残念なことは、与えられた苦しみを、人が生きることの本質を学ぶための試練と受け止めても、神の大きな愛として受け止められない、自我を捨て創造主の前にすべてをゆだねる素直さ、謙虚さをもてない。宇宙をコントロールし、私たちの生き方を注視している絶対主からの愛を感じ、敬虔な祈りを捧げることができたら、どれだけ肉体的に傷ついたとしても、安らかな平和な気持ちをもち、ゆとりと幸せな感情に包まれることだろうと思う。

私は今なお、若い頃に抱いていた「我思う、故に我あり」の言葉に自縛され、敬虔な祈りを捧げることより、自己の主体性と人間としての尊厳、自分らしさをもちつづけたい感情にこだわりつづけている。私は釈尊が入滅前にいわれたという「なんじらはただみずからを燈明とし、みずからを依所として、他人を依所とせず、法を燈明として、法を依所として、他を依所とすることなくして住するがよい。」(「仏陀」増谷文雄 角川選書)を払拭することができないでいる。

二部

アメリカの臨床医キユーブラー・ロスは「死の瞬間」のなかで、死に至る病を宣告された患者たちの心理変化を、否認孤立、怒り、取引き、抑鬱を経て、第五段階、病を自分のものとして受容する段階に達するという。
幸せに暮らしていた人が、致命的な宣告を受け平静さを保てるわけはない。周囲の人がどのように慰め、勇気づけても容易に救えるものでない。他人に教えられるまでもなく、どのように対処したらよいか本人がわかっている。どのように考え、癒そうとしても現実に加えられた試練から救われない、逃れられない自分を本人がよく自覚している。いかに理性で抑え込もうとしても、心の内から不安・恐怖が湧きあがってくる。この無意識から噴出する感情を、容易に自己統制できるものでない。

宣告された病を受容し共存して、残された人生を前向きに生きる気持に落ち着くまでに、かなりの時間がかかる。なかには、受容の段階に至れないまま、悩み、苦しみつづける不幸な人もいる。ボランティアの人たちの話によると、生まれたときに障害をもっていた人たちと違い、健康だった人が障害者になると、肉体的な傷だけでなく、心の傷を引きずりつづける人が少なくないという。人は自分の能力に自信をもてないほど、背伸びをしようとする。健康であった頃を思い出し、過去のプライドをもちつづけようとする。弱さをみせまいと自己主張が強くなる。現実の自分の姿とプライドとの乖離に気づくたびごとに、自分の殻に閉じこもり偏執になり、ますます自分で自分を傷つけ惨めにしていく。

医療は肉体的な治療だけの問題でなく心のケアが重要といえる。一人の障害者が、障害をもつことで社会から背を向けて生きるとしたら、その人の心を殺したとおなじことになる。人間を尊重することは、身体の傷から救うことだけでなく、心の傷をも救うことのはずである。その心を歪ませる要因は、本人の自覚だけの問題でなく、その社会がもつ文化と社会的な背景、環境、教育システムが影響している気がする。能率・効率を重視し、便利さを尊重する社会は、機能の優れていない、役に立たないものを排斥することになる。競争社会では、自分の優秀さと要領のよさを自負し、落伍者を努力が足りなかった、障害者を競争に参加できない資格喪失者と考えがちである。物質を優先する社会では、モノの豊かさが人生の成功として評価され、社会のなかで人間が生きることの本質的な認識が欠落する傾向になる。

私は人間の存在として致命的な病、ALSの宣告を受けたが、生来の生き方の知恵「ものは考えよう」、般若心経を援用した「あとのことはわからない」というオプチニズムの精神、そして、ヴィッパサナー瞑想のお蔭で比較的平静さを保ちながら過ごしてきた気がする。だが、今なお受容の段階に達したなどいえず、私の心は障害が悪化するたびごとに絶えず、抑鬱、受容のあいだを揺れ動くことだろう。

若い頃、退職したら妻とともに、日本中を駆け巡りたいものと思っていた。気に入った場所に止まってスケッチを描く。妻が嫌ったとしたら独りで出かける予定だった。旅館がなければテント、車のなかで寝ればよい。時にはのんびりと温泉につかり、地方色豊かな食事をとり旅の醍醐味を味合うことができる。四国八十八箇所を巡るのもひとつの案だった。八十八箇所のスケッチを描く、退職し時間は十分にある。仕事でよく訪れた松山はいい町だった。まず人がいい、お世話になった友に会いたいものと思った。だが、その日のために用意していたテント、シラフ、炊事道具などのすべてが、一度も使わないまま不要になった。

そして海外旅行だ。ニューヨークから帰ってきたとき、会社の研修旅行で訪れたことのある友達が、自由の女神、国連事務局へ訪れなかったことを呆れていた。私は名所・旧跡であればテレビや雑誌で見ればよいと思う。たしかにパノラマ感、臨場感、自分の足で訪れたという満足感がある。その暇があれば、私はメトロポリタン博物館に通う。インホメーションセンターの女性に「6日目です。ひと月は必要ですね。」と言ったら、彼女は「1年は必要です。」と答えた。

海外旅行の魅力は、異国の景色を見、町並みを歩き、変わった食事をとることでない。日本と異なった環境に放り込まれ、私は自分自身の存在を再認識できる気がする。このためには一人旅、日本語を話す機会がないのがいい。友達とお喋りしながら旅行していたら、TVの前に座っているのと変わらず、海外へ来たある種の緊張感と開放感がなくなる。外国に行ってまで日本からの残滓を持ち込むことはない。

地下鉄に乗ってボッケッと乗客の表情を見るのが楽しい。日本のように同じ顔が並んでいない。いろいろな民族の人たちがいる。お互いが違いを意識していないのがいい、地球の縮図を見ている感じ、みんな生きている、仲間なんだと思う。そして、彼らが会話している表情は豊かだ、生き生きとして、感情を身体で表している。

西洋絵画の人物をみると、私はある種の違和感をもつが、地下鉄に乗って人々の表情を見ていると、モデルは市井に住む普通の人でしかなかったことに気づく。美術館で見た絵から飛び出したような美人がいる。デユーラーの絵から飛び出た皺に刻まれた老人がいる。彼らを見ながらどこの絵で見た顔だろうと想像するのも楽しい。

私が名カメラマンであったら、彼女たちが会話している一瞬を捕らえ、素晴らしい写真ができるはずだ。いつも、シャッターを押すのはいまだ、と思いながら人々を眺めている。これも一人旅でないと味合えない旅の魅力だ。
仕事で海外へ行っていた頃、休みの日にはよく写真を写したものだった。素晴らしい風景だと思ってシャッターを押す。一瞬の感激は、心でなくカメラの中に封じ込められる。その写真を後から見ることは少ない。いわば、写真を写すことは、干からびた感激の紙屑をつくっているだけの気がしてきた。退職後に海外へ行くとき、基本的に写真を撮らず、心に刻み付けることにし、できるだけスケッチを描くことにした。私のように慣れない者にとって、時間がかかるのが難点だが、のんびりと座りペンを走らせるのも楽しい。

旅先で日本人の観光客に会ったとき、挨拶するのが礼儀と考えて話しかける。多くの場合おもしろくなく、不愉快になることが少なくない。大抵彼らは身構えていて素っ気なく、会話が進まない。外国人がもつあのおおらかさがどうしてもてないか、日本人は世界の中でたったひとつだけ、全く異質の民族だと思う。とはいえ、20数年前よりかなり変わってはきた。
現地の言葉ができ町の人たちと会話ができたらさぞ楽しいだろう。せめて、英語だけでも自由にできたら、海外旅行の楽しさを満喫できる。そして、アルコールが好きであったらもっと多くの出会いを楽しむことができるかしれない。

独りで海外に行って嫌なことがひとつだけある。それはレストランへ行くことだ。スコットランドへ行ったときビッフェスタイルで食べたホテルの魚料理は美味しかったが、数少ないイギリス料理を食べた経験によると美味しいと思ったことがない。フランス料理はさすがきれいでおいしい。だが、海外でレストランはひとりで行くところでないと決めている。注文して料理が出てくるのが遅い。一皿食べてボッケと、まわりの客が楽しげに会話しているのを見るほど、惨めで侘しいことはない。

パリでたまたま知り会った、日本から来た貧乏画学生の女性を夕食に誘った。彼女は10年ほどサラリーマン生活をして金を貯めパリへ来た、カネがなくなったら帰国するという。ある教員が退職金の半分をワイフに渡し、残りのカネでパリの画学校へかよい、ヨーロッパ中を放浪した話、絵画論、パリ事情など話がはずみ気がついたとき24時近くだった。私は人並みの人生を歩いてきたが、世のなかにはいろいろな生き方をした人たちがいる。
パリでは音楽会が21時から始まる。音楽会が終わった後、地下鉄を乗り換えてノートルダム寺院の前に来る。セーヌ川の対岸にある中華料理店か、大衆的なギリシャ料理店で夕食をとる。アラブ人が経営する小さな食料店に立ち寄り、朝食のパンと飲み物を買って、ホテルに帰るのがいつも24時をすぎた。

ロンドンでは音楽会が19時から始まる。九八年に訪英の時はコヴェンとガーデンオペラハウスが改装中だったため、ナショナルギャラリーから歩いていける距離のフェスティバルホール、ナショナルオペラハウス、教会でおこなわれる音楽会へ行った。音楽会に行かなかった日は、ロンドンに到着と出発の日だけだった。音楽会の後、若者たちの人ごみをかき分けてソーホーにある中華料理店まで歩き食事をとる。日本の場末の大衆的な中華料理屋といった感じで、品数が多く、安く、結構美味しい。何といってもレストランで感じる気詰まりさと侘しさがないのがよい。いつも込んでいてその大衆的な雰囲気がひとつの魅力でもあった。

出発前に美術館の画集を見て、事前に勉強をしようと思いながらいつも果たしていない。事前に勉強しないから鑑賞の深みがない代わりに、私は意外性をいつも楽しんでいる。部屋に入りまず部屋全体を眺める。昔、画集で見たことのある絵が、始めて見て感動を呼ぶ絵が「待っていた、俺を見てくれ」と叫んでいる。名の知れた画家の絵が目に飛び込んでくる。プレートを見て自分の鑑識眼を確認するのも楽しい。一点一点をゆっくり見ながら絵から話しかけてくる声を聞く。20数年前に来たことのあるルーブル、4年前に来たナショナルギャラリーでは、多くの恋人に再会した気持になる。帰り際にもういちど目ぼしい絵を見てまわり「また来るからね」と別れを告げる。

美術館は絵を見るだけの場所でない。毎夜遅い私にとって、ルーブル博物館、ナショナルギャラリーは、休息と昼寝の場所でもあった。ロンドンでは、主要な美術館・博物館が無料なこともあって、ナショナルギャラリーには、休憩をかねて日に数度足を運び恋人に会う思いをした。規模が膨大で、何度足を運んでも決して飽きることはない。

観光でヨーロッパ、アメリカの大都市へ行き夜の町に繰り出さないのなら、コンサートホール、オペラハウス、教会で行われる音楽会に行くにかぎる。多くの場合チケットが容易に手に入り、結構よい席がとれる、値段が安い、オペラなど日本で考えられない安さだ。
20数年前、トリノのオペラハウスで、茶の背広を着たのは私だけ、男性はほとんどタキシードで黒一色、女性はイブニングドレスだった。カジュアルスーツを着ていたのは私だけで恥ずかしい思いをした。イタリアの友人の話では、トリノの人たちは格式ばっているし、多分オープニングコンサートであったのだろうといっていた。

九五年、ロンドンへ行ったとき、コベントガーデンオペラハウスにチケットを買いに行った。当日に「フィガロの結婚」の公演があった。ジーンズ姿で着換えにホテルへ戻る余裕がなかったので、オフィイスで服装について聞いたところ、何を聞くかという態度で「かまわない」との返事で入場した。やはり気遣いのとおり場違いの気がした。「よい、わるい」の問題でなく、やはり他の観客のことを配慮した節度というものが必要だと思った。この例外を除きカジュアルスーツで恥ずかしい思いをしたことがない。オペラに興味のない人でも気軽な気持で、一度、本場のオペラを見るのもよい経験になる。パリのオペラ座など、内部に入っただけでパリに来た値打ちを感じる。

仕事でイタリアへ行ったとき出張先の会社のボスが、スカラ座のチケットをくれた。舞台正面のロイアルボックスだった。演目はヴェルディ「仮面舞踏会」、舞台は私だけのために演じている錯覚をもった。スカラ座の音は天上桟敷でもよい音をしていたが、ボックス席の音はまた格別にちがっていた。正面から聞える音だけでない広がりに驚いた。このときほど権力をもち金持ちを羨んだことはない。悪いホールで安チケットを買って、演奏家を評価したとしたら、それは演奏家に失礼というべきであることを知った。

二週間ほどパリに滞在する間に、モーツアルト、ヴェルディ、フォーレのレクイエムが教会でおこなわれた。小編成のオーケストラだったが、コーラスには結構人数がいた、この種のコンサートを日本で決して聴くことができないだろう。東京でなく地方に住んでいる人たちだったら、めったに聞くことができない音楽会に遭遇することができる。音楽が好きな人は、ホテルで夜、ボケッと時間を空費しているのでなく外出するにかぎる。

海外旅行の魅力をもっとも感じるときは、一日のスケジュールを終えた満足感を抱きながら、深夜、町の雑踏を歩いているときだ。観光客などを見ることもなく裸の町並みにひとりいる気がする。心の内から海外へ来ている感慨が湧き上がり、自分が存在し生きている感じ、その満足感と孤独感がたまらない。年に一度、この感覚を味合いたいものだと考えてきた。

インド、ウイーン・ザルツブルグ、もう一度電車に揺られのんびりとスイスへの旅行、片言のイタリア語を使ってみたいと思っていた。そして、スポーツジムに勤めていた、芸大卒業したての画家志望であるYさんが、一年間放浪したというトルコに、ぜひひとりで行きたいものだと思っていた。

これらはすべて果たされない夢となった。ALSを宣告されてから、粋がって有機栽培の野菜作りに熱をいれず、せっせと旅行すればよかったと思う。後悔といいたくない。果たされなかった願望を夢見る気持、それは片思い女性に、押しのなさ、勇気のなさから恋を果たせなかった感傷ににた甘さと哀愁がある。

九九年七月 スポーツジム、ピアネスの入り口で頭から見事に転倒した。額から血が吹き出し、衣服が真っ赤に染まっていくのが見えた。近くにいた客、そして従業員がかけつけて救急車で病院へ運ばれて、3針縫った。
その後も畑でよく転倒するようになった。室内でもよく転倒した。ほんの僅かな段差、引っ掛かりが障壁になった。老人にとってバリアフリーがいかに重要かをしった。転倒して困ることは、手でサポートができないから、体重のすべてを一瞬、頭部で支えることになる。応接セットの椅子の足にひっかかり窓ガラス近くで転倒した。数センチ近くだったら頭でガラスを叩き割っていたにちがいない。ベランダでも転び、たまたま置いてあった脚立に胸を強打した。脚立がなかったらコンクリートの床に頭を打ち付けていただろう。いずれにせよ、転倒したことを悔いるより、運が強いのに感謝した。

 いつか乗鞍のスカイラインを駆け抜けよう、そして、もう一度河童橋から見る穂高連峰の美しさを眺めたいと思っていた。毎年天気予報を見ながら、いつ行くか考えているうちに行きそびれた。今年が最後だと思ったが、身体の状態を考えたら出発する勇気がなくなった。

日本ヴィッパサナーが主催する瞑想コースは、リフレッシュするため少なくとも年に一回受講する必要があるという。障害が重くなってきて、これが最後の機会と考えながら、九月末に二回目の一〇日間のコースを受講した。ベッドメーキングができない状態だったので、事前に手助けをお願いしておいた。前回のように瞑想をしていて脚の痛みで苦痛を感じることは少なくなったが、新たな自己発見という大げさな感じはもてなかった。もっともそのような効果を期待することがまちがいであったであろう。

左手の自由がきかない、右手でも重い荷物が持てない、字が書きにくい、夕方になると右腕の筋肉が痛くなってきた。歩くのに安定性が欠け、一歩一歩を気使いしながら慎重に歩かなければならなくなった。十一月末、長野県の昼神温泉へ行った。露天風呂に入るのが危なくなった。浴衣を着るのに苦労した。十二月、最後のチャンスとして片原温泉へ行った。益々状況は悪くなり、旅行ができる限界になったことをしった。

長い間、布団を干したことがない。冬になったら18リットル缶の灯油が運べないことから、社会福祉事務所にヘルパーの派遣を依頼した。八月から一週に一度、快く来ていただけるようになった。居間のフローリングの床を、拭き掃除していただけ助かった。十月からデーサービスで入浴サービスを一回/週受けた。たまにスーパー銭湯の韓国式垢すりをする他、背中を洗うことがなかった。右手で洗える範囲も石鹸を擦りつけるだけで、力をいれ洗うことができなくなっていた。

暖かい間は、家の風呂を使っていたが、寒くなってからスーパー銭湯へゆっくり湯に浸りに行った。十一月になると下着を着るのが難しくなった。近くに人がいると、多くの場合、見かねて手伝ってくれた。頼んで手伝っていただいたこともあった。やがて、気遣いが負担になって行くことを止めた。

セーターの袖に直接腕を通すことができないため、壁に取り付けたサポートに引っ掛けて着ていたが、十二月中旬にはそれもできなくなった。腕が通しやすい特大の半袖のチョッキを、家にいるとき、外出するときにいつも着ていた。その他の服は、袖が通せず着ることができないから、外出して寒いなどといっておられなかった。ズボンをはくのも難しくなり、モンペのようなパンツに切り替えた。図書館が主催する読書会、そのほか人に会うときは、ヘルパーが来る日程に合わせてセーターを着せていただき、ズボンをはいて外出した。

二〇〇〇年一月になると炊事が難しくなってきた。私はALSの進行に気づいてから玄米食に切り替え、肉はほとんど買わず魚を食べ、市販の揚げ物は買わず、家ではオリーブ油を使い、輸入品の果物、添加物のある食品をできるだけ避けた。海草と有機栽培による野菜をたっぷり食べた。目的は健康を維持するのが狙いだけでなく、現代文明・社会のライフスタイルへの挑戦という気持になった。それは社会の流れに左右されない、私らしさを演出するあがきに似ていた。

冷凍庫にボール状にして保存した玄米のご飯は、電子レンジが健康によくないとのことで、一人用の土鍋で暖めた。その土鍋を炊事台から40センチの距離にあるテーブルに移すことが難しくなった。片手鍋が重くなった。薬缶にいっぱいに入れた水が運べなくなり、だんだん入れる量が減ってきた。買い物をして運搬できる量が減った。独り暮らしができる限界にきたことを悟った。

六七年、親から多少の援助はあったが、会社から借金し、自分で平面図の設計をして、町の大工に依頼しちっぽけな家を建てた。父が所かまわず植えた木々が大きく育った。大阪から帰ったとき、樹木の目録を作ろうと図書館で調べかけたが、面倒になってやめた。九九年、無理して剪定していて、脚立から転落してから放置していた松の木は、小枝を伸ばし放題の無残な姿になった。

庭には芝生が広がっている。30年余経ち木々の枝が伸びている。冬になると鳥たちが訪れる。大阪で雀と烏しか知らなかった私にとって、町の郊外の住宅地に、このように多くのきれいな小鳥たちが訪れるのに驚いた。バードウオッチングをしても楽しいだろうと思ったことがある。私の死に場所と決めていた木々に囲まれた私の土地から、離れなければならないときがきたことを知った。

二月一日、ケアハウス「おとがわ」に開所と同時に、待ちかねたように入居した。理事長が入居申し込み時に描いていた、年寄りたちが残された人生を楽しむ場、人々が対話できる場、共通の趣味を楽しむ場をもつ雰囲気でなかった。さながら私が抱いていた昔の老人ホームそのものだった。

このなかでN夫妻だけがちがっていた。夫のIさんが70歳、妻のTさんが65歳、二人でダンス教室、コーラスの練習に行き、息子が牧師をしている教会の手伝いをしていた。つつましやかであるが、もっとも楽しんで余生を過ごしているように思えた。よく夫妻の部屋でお茶をいただき話をした。ことに敏子さんの生き方が面白かった。夫妻の勧めでかなり高額な健康器具、飲料水を買った。風呂に入るたびに健康用のピースを張り替えてもらった。勧められて教会に行くようになった。

眼の不自由な青年が教会に来ていた。盲導犬は主人が祈祷式に参列している時、床にじっと座りつづけている。人間にはこの従順さを真似できないだろう。だが、彼の前に食べ物が落ちると本能が目覚め、途端にむしゃぶりつくという。或る日、夫妻の貪欲さをみて驚いた。夫妻は意識で思考しているときは、自己規制を働かせ敬虔なキリスト教徒である。毎日聖書を読み、教会で賛美歌を歌い、牧師のメッセージに耳を傾け、信仰の証をし、敬虔な祈りをする。しかし、おいしい餌を目の前にして、彼らが無意識に秘めていた動物的な本性がむきだしにされた。

敬虔なクリスチャンの顔をしていても、所詮、無意識に潜むものは、欲望で満たされた貪欲なただの人間でしかない。人生の終わりが近づいたときに貪欲さを示すほど醜いことはない。夫妻は「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。」(「旧約聖書」ヨブ記)という言葉を知らない。アブラハムが我が身を守るために、異教徒のまえで妻を妹と告げたように、欲望を守る、保身のためのウソは正当化できると考えている。改めて信仰って、何だろうと考えた。

教会で信仰の証の時間があった。それぞれが日常生活のなかで出会った幸せを神様が与えてくださったと感謝する、悩み・苦しみを神様から与えられた試練として受け止める。彼らは都合のいいこと、悪いことのすべてを神様に委ねているようだ。恩恵について感謝の祈りをささげる、振りかかった試練を祈りで解決しようとする。彼らは他者を傷つけても、神に赦しを乞うことで解決できる。恵まれた幸せ、人から与えられた善意は、神様からの恵みに刷り替える。彼らは神様と強力な絆があっても、人間との繋がりを忘れているように見えた。

彼らは、神からの啓示を聞き自己を説得する。霊能者でないかぎり神の声を聞くことができない、神の声と思ったのは、祈りのなかから聞こえる自己の願望、自己を正当化するエコーでしかない。神の名のもとに自分の弱さを取り繕い、たくましく生きる口実を自分自身で与える。聖書にクリスチャンは選ばれた人とある。私は救われているという選民意識がより強く生きる力を与え、彼らには社会的な常識さえ乗り越えるパワーを身につけている気がした。

入居者が入所して落ち着いた頃、お喋り会を開いた。当時、入所していた40名ほどの内、10数名が集まった。そして、お喋り会、折り紙の会、俳句、コーラスの会を開くことになった。俳句の会は少しずつ減少し5名ほどになった。お喋り会はたちまち人数が減りやめた。いろいろな生い立ち、人生を歩んだ人たちが集まっている。時間は退屈するほど十分にある。お互いの人生を語り合ったらさぞ楽しいだろうと思った。

気の合った仲間とお喋りを楽しんでいる。だが、あまり知らない人、他人、そして、多くの人たちと話をすることは苦手のようだ。仲間内としか話ができない、他人の声に耳を貸すことができない、自分の意見を言うことができない、すなわち対話することのできない社会で、民主主義が育つはずがない。

女性は新しく入所してもすぐ仲間をつくる。食堂ではそれぞれのグループで会話がはずむ。これに比べ、年寄りの男性がちがうのに驚く。全く例外を除き、独りもくもくと食事をとる。彼らは一度も声をださない日があるにちがいない。佐藤愛子の小説「凪の光景」では、元小学校の校長が知性と教養、良識さえ失い、ただ頑迷なひとりの老人に化けてしまった。佐江衆一「香洛」では、威厳と権威をもっていた父親がいまでは「金欲と無関心、慎重と猜疑心、無邪気とおぞましさ、滑稽と気味の悪さが衰えた肉体にしたたかに同居している」ようすが書かれている。男の年寄りは惨めだと思う。

アラン & バーバラ・ピーズは、男女は何十万年前から決まった役割をもち、現代に引き継がれているという。男性は狩猟をおこない、敵と戦い、家族を守るため地位や権力を手に入れる、競争相手に打ち勝つことを目標にして生きてきた。一方、女性の意識はコミュニケーション、協力・調和・愛・共有、人間関係に光を当てているという。(「話を聴かない男、地図が読めない女」藤井留美訳 主婦の友社)。

男の年寄りは、体力を失い、狩猟し家族を支える能力を失うと、自らの存在価値を見失ってしまうのだろう。存在価値を見失ったものが、生きがいをもって生きることができるはずがない。100年ほど前は、過去の栄光により権威を保つことができた。現在のように能力と機能が優先される社会では、過去の勲章の価値を認めてくれない。女性のような協力・調和の才能もなく、奇妙なプライドの塊に変身するか、ワイフに甘え、飼いならされる道しかないのかしれない。

ケアハウス、正式の名称「軽費老人ホーム」は、プライバシーが確保された個室の他、風呂、食堂、その他の共通設備、冷暖房設備が完備している。入居の条件は、60歳以上、自立していること、諸費用の支払能力があること、といっても収入がなければ、食費に僅かの費用を加えるだけで入居できる。生活の活動範囲が狭くなった年寄りに多くの荷物は要らない、必要な荷物を置くスペースさえあれば十分だ。どうせ天国に運ぶことのできない荷物に囲まれて、いつまでも大きな家で暮らすことはない。ケアハウスは、残された人生を自覚し、荷物を整理するとともに気構えを新たにして、老後を過ごす理想的な場所のように思う。

ひとり暮らしをして掃除・メンテナンスをこなし、一人分の僅かな食事の支度をし、万が一の不安をかかえて暮らすより、ケアハウスの生活は楽で話し相手もいて安心して毎日を過ごすことができる。息子夫婦から一部屋あてがわれお互いに気を使って暮らす、まして嫁に「お邪魔虫」と陰口をいわれることもなく、はるかに伸び伸びと老後を楽しんで暮らすことができる。

過去の大家族制度が存続できた時代は、年寄りの知恵が通用することで、年寄りは権威を保つことができた。過去に年寄りが尊重されたのは、倫理観・道徳観から言われただけでない、年寄りたちは、尊重されるだけの価値をもっていた。現代ではすべての情報は巷に満ち溢れ、年寄りたちから情報・知恵を得る必要などない。古い観念しかもち合わせていない母親から子育て、料理について教えを乞う必要を感じていない。年寄りがもつ規範と智識に裏打ちされた価値観は通用しなくなり、能率と効率、功利性が要求される時代になった。会話は共通の話題をもつことで始めて可能となる。年寄りたちの話題は、彼らにとって過去への郷愁と現状への戸惑いでしかなく、若者たちは耳を貸す価値と余裕をもっていない。

どの動物でも、親は子どもに深い愛情をもって育てる。そして、親が成人した子どもに、恩を要求する、甘えることはない。まして、育てた子どもに気を使い、媚びながら生きる親などいない。彼らは子育てが終わったあと、自然の摂理にもとづき自分の生き方を見つけている。人間は自我をもち、思考力をもったお陰で、動物たちにも劣る生き方しか見つけられないようだ。子どもへの甘えは、自分の生き方を見出さないまま、自分の欲求を子どもに投射した過剰な愛情か、あるいは、老後に見返りを期待して投資する狡猾さから生まれてくる。

Iさんは、大阪で一人暮らしをしていたが、家を売却し息子夫婦が住む豊田市に移り住んだ。嫁と折り合いが悪くなりケアハウスに引越ししてきた。家を売却した金、夫の年金などすべては息子が管理し、入居費用と小遣いだけが息子から送金される。生まれ故郷、育った土地の友達と話をするため電話をつけたいという。だが息子が不要だといって許してくれない。息子たちが訪れることもない。年老いてから息子夫婦の仕打ちに愚痴をいいながら暮らすほど侘しいことはない。

ある特別養護老人ホームで働いていた人の話、元教員だった人、夫が医師だった老婦人がいた。彼女たちは、かなりの年金、財産があるはずなのに子どもたちからの送金で暮らしている。入居費用は有料老人施設でないかぎり少額ですむ。外出が自由でない年寄りの小遣いなど僅かしか要らない。子どもたちは、親の財産が目減りするのを避けている、そして、世間体を気にして、できるだけ自宅から離れた施設を選ぶという。

現在の日本では、過去の家族制度を維持できる環境・時代でなくなった。女性が男性に従属する時代でなくなり、女性自身が主体性を持った自覚が求められる、自分が死ぬまでの生き方は、子どもに依存するでなく自分で責任をとる時代になってきた。自分が蓄積してきた財産を遠く離れたサラリーマンの子どもに残したとしても、たいして感謝されることもないだろう。親の遺産が不労所得、棚ボタとして転がり込んできたら、大衆車を購入する予定が高級車に変わるだけ、大型ゴミになる高価な家財を買い込み、生活が贅沢になるだけでしかない。子どもたちに与える恩恵は、物質的な豊かさを享受させるだけで、独立心を失い、他に依存する甘美さを知り、心の貧しさを学ぶだけの気がする。

子どもたちの生き方に役立たない財産を残すより、自分が楽しんで使い果たすことだ。あるいは、蓄積できた財産は、自分の力だけでできたのでない、多くの人たちの協力により形成できたことを思い起こし、社会に還元するほうがはるかに有意義である。自分が築いた財産は、神様からの預かり物といっていい、余った財産は、神様に、社会に感謝の印としてお返しする、立派な墓を立てる、遠く離れた子供に残すより、社会のなかで役立てた方が、この世に私たちが生きてきた証拠をより有意義な形で残せる気がする。

岡崎で資産家であったHさんは、老人性痴呆になり老後の面倒をみたのは、夫を亡くし出戻りした娘だけだった。10人いた他の子どもは、父親の元に誰も寄り付かなかった。減殺請求の配分方法で紛争し12年経過し、ようやく解決のはこびになった。マンションを経営する70歳を越える娘は、数億円を相続することで結審の運びになった。Hさんは、子どもたちが死に際になって、兄弟・姉妹が争い使い道のないカネに執念を燃やす、醜い子どもたちを育てた、父親としてずいぶん罪作りな人生を歩んだものだ。

現在の相続制度は、被相続人の意思・立場を無視している。民法によれば、子どもたち全員が均等の相続の権利をもっている。寄与分という制度はあるが、対象は財産の維持・増加に特別に貢献した場合であって、親子・親族として当然といってよい協力や扶助は含まず、親の老後の面倒を見るメリットはない。むろん、老後の面倒をかけた息子の嫁に、法的に感謝を表す制度はない。そして、不肖のこどもにも被相続者の意思、遺言状を無視して遺留分の減殺請求ができ、相続の権利を主張する機会が残されている。

現在の社会では、産業構造の変化によって、過去の家族制度は崩壊しつつある。そして、少子化、女性の社会進出が当然なこととなり、老人を介護する余裕はない。欧米の人たちでは考えられない単身赴任さえ不思議でない社会意識のなかで、子どもが親と一緒に暮らすことなど、はるかに難しい社会構造になっている。老人たちは、子どもたちから独立して生活するのが自然な姿になった。自立が難しくなったときには、コミュニテイーの協力と社会保障制度の利用、あるいは、老人施設で過ごす時代になってきた。このように変革された時代に、家族制度を守ろうとする相続制度が生きつづけることが奇妙なことだ。親の老後の面倒を見ない子どもが、血がつながっているだけの理由で、財産を相続する理由などない。老後を支えたコミュニテイーと社会がその配当を受けるべきといえる。

山本七平によると、日本が均分相続となったのは戦後のことで、北条幕府時代に「貞永式目」が公布(1232年)されて以来、江戸時代を経て明治5年に至るまで、相続権という法的な権利は誰も持っておらず、基本的に被相続者の意思による自由相続性で、相続順位は「奉公の浅深」(年功序列)と「器量の堪否」(能力の有無)が普通であったという(「日本人とは何か」PHP文庫)。この能力と実力・実績主義が商家の縮小化、農村の土地の分散を避けて日本人の家制度を守ってきたといえる。もっとも徳川時代の武家社会は、家康が定めたといってよい長子相続制度が守られてきた。渡部昇一は泰平な武家社会に、実力主義ほど有害なものはないという(「日本そして日本人」祥伝社)。しかし、町人の社会で実力と実績を評価しなければ、その社会の産業と商業は発展できず、活力を失ってしまうであろう。

戦後の民法の改定は、能力、責任、義務の履行にかかわりなく均一主義を唱えることで、日本人がもつ家の観念、家族制度を破壊し、仲の良かったはずの兄弟・姉妹が醜い争いを始める機会をつくった。平等主義は、能力・実績・貢献を認めない画一的な均一主義にすりかわってしまった。もっとも不幸なのは、過去からの家族観念の幻想をもちつづけ、自分の主体性をもたないまま、子どもに依存して生きようとする年寄りたちである。

親が子どもたちに与えることは、すべての動物たちが果たしているように、どんな状況でも独りで生き抜く実力を与えること、そして人間として、誰とでも仲良くできる感性を教えることだ。そして、老いた親が子どもたちにできることは、モノやカネを与えることでない、人生の先輩として老いの生き方を示すことだ。社会の第一線で活躍する彼らに老いの感情が理解できるはずがない。だが、子どもたちが60歳、70歳になったとき、親の生き方を手本にしないとしても「さすが俺の親父だった」と納得する生き方を残すこと、そして、孫たちに、優しいお祖父さんだったという外に「人間として生きたしるし」を印象づけておきたいものだ。
自分で自分の余生をどのように生きるか見つけないと、年寄りにとって天国であるはずのケアハウスでの生活は、風呂の用意ができた、食事の用意ができた、という放送で行動するだけ、10階建ての鶏舎に住んで、ひたすら神様からの呼び出しを待っているだけになる。

ケアハウスに入居してからも、一週に一度、ヘルパーに掃除に来ていただいた。入浴は市の福祉センターのデーサービスから、おとがわに併設したデーサービスに変わった。一年近くの間に、多くのヘルパーの人たち、デーサービスの人たちと知り合った。皆さんは一様に親切で、暖かい心の持ち主だった。介護していただいた行為に感謝するだけでなく、その暖かい心の触れ合いに感謝した。ただし、2人の例外があった。

Hさんは私が外出のため服を着るヘルパーとして訪問した。私が靴下をはくのに時間をかけているのを見守りながら「自分が出来ることは自分でしないと、そのうちに動けなくなりますよ。」といった。これは、彼女の口癖だった。

「甘えさせてはいけない。自立しなければ駄目だ」「安易な手助けは本当の親切にならない」という。骨折などの手術後、脳障害あとのリハビリでは重要なことであろう。しかし、箸を持つ、本を持つ、字を書くことなど日常生活で腕に負担をかけるだけで、夕方になると筋肉痛で苦しんでいる事情を理解せず、やみくもに世間の常識を強要する無神経さに怒りを爆発させた。

身障者、老人たちが数分かけてシャツの袖に一本の腕を通すことを見守るのが思いやりだろうか。転倒した人が起き上がるのを見守るのが気配りだろうか。リハビリにもならない苦痛の動作を見守るのが親切だろうか。デーサービスで「自分で出来ることは自分で・・」というスタッフに答えて、私は「一週間に一回、贅沢をさせてくださいよ。」といったものだった。
人は言葉一つですべてを定義し、区別する。「できる」という言葉の中に、大きな段差があることに気づかない。健常者であれば5メートルの距離を、1秒で駆け抜けることができる。身体障害者が数分かけてゆっくりと、危なげに歩いたとする。内容が全く違っていても「できる」ことに変わりがない。あなたは自動車で20分の距離を通勤している。明日から排気ガスを撒き散らし、環境を汚染しながら通勤するのでなく、徒歩で通勤することだ。あなたは丈夫な足をもっている。昔の人はみんな歩いたものだ。あなたはそれが「できる」からだ。

Yさんは親切だった。身体が不自由な年寄りが、服を着るのを介助しながら暖かい言葉をかける。その言葉は、服を着れない幼児をあやすとおなじ言葉だ。彼女は身体が不自由であると、人格も失ってしまっていると考えている。痴呆になり幼児に回帰した年寄りを扱うのであればともかく、彼女が年寄りを「あやす」言葉は、侮辱していることとかわりない。憐憫はその人の人格を見ようとしない。

彼女たちに困ることは、彼女たちが「私は思いやりがあり親切で、困った人を助けている。」と思い込んでいることだ。自分が優しく、正しいと思い込んでいるほど厄介なことはない。彼女たちの感覚は、人と人のつながりを、自立し個性をもった人格が対峙していると考えない、おなじ平面にいると考えていない、自分との違いを意識して、上から手を差し伸べようとしている。人間関係で不可避な「相手の気持になる」という考え方をもっていない、自分のうちに飲み込もうとしている。自分と被介護者との違いを、肉体的な条件だけの違いとみていない。彼女たちは自分たちと異質のものとみている。自分たちと「違う」というこの感覚が「差別」につながっていく。

九六年秋、ニューヨークへ行き、リンカーンセンターへ行くためコロンバスサークル横を歩いていた時、土砂降りの雨で歩道に水が溢れていた。縁石に向けて跳びかけてバランスを崩し倒れかけたとき、一人の青年に抱きかかえられた。彼が近くにいたことに気づかなかった、手を差し伸べたそのタイミングのよさに驚いた。それはまるで、私が倒れかかるのを空から見ていて、さっと舞い降りたような素早さだった。彼の助けがなかったら、プールに落ちたかのようにずぶぬれになって、期待のオペラを見るどころでなかった。

海外へ行った印象によると、困っていると手際よく手助けていただく。ことに身体的な障害が顕著になってネパールへ行ったとき、彼らがさっと手を貸すタイミングのよさ、そして手を出す自然さに驚いた。それはまるで自分の他の手が動きだしたようなスムーズさだ。私を例で日本人的な感覚をいうと、困っている人を見たとき、助けるべきかどうかを考え、それから行動に移している気がする。彼らは手助けするのに考える時間の遅れなどない、本能的な感覚と敏捷さで行動に移す。

ケアハウスからS有料老人ホームに入居してからのことである。隣接した診療所への往復は、ホームのナースが介助する。或る日、車椅子の私はナースがいなかったので、足で蹴りながら車椅子を動かして帰りかけた。玄関のマットで引っ掛かってスムーズに動かせなくなったとき、数歩離れて立っていた受付の事務員が「手伝いましょうか?」と問いかけた。私は「いいです。」と答えると、受付の自分の席に戻った。私はさすが彼女が日本人だと思った。おそらく海外であれば、問い合わせるまえにたった1.5メートルの距離を移動するのを、手助けしてくれたにちがいない。

アメリカで5年間暮らしたMさんの話、障害者にとって日本は暮らしにくい、不愉快だと言う。障害者が暮らしやすい設備・環境が整っていないだけでなく、健常者たちは気遣い・思いやりがない、変わったものを見る眼差しを向ける人が少なくないという。彼女が買い物に出かけ道路上で転倒したとき、数人の女性が近くでお喋りしていたが、苦労して起き上がる彼女を見ているだけで、だれも助けにかけよってくれなかったと語った。多分、一人だけだったら助けてくれたことだろう。友達と一緒、集団になると日本人は異質な人格に変身する気がするようだ。

入所早々、二月三日、エレベーター室の前で転倒し7針縫った。まだ一・二年もつだろと考えていたが、日が経つにつれ病状がどんどん進行しているのがわかった。五月に入って福祉事務所のAさんの協力、インターネットで特別養護老人ホーム、老人保健施設、そして有料老人ホームを調べた。

A施設は居宅式介護施設で、サービスごとに費用が加算されるシステムだった。施設側は、自立性を尊重した合理的なシステムと自慢していた。人間が提供するサービスが、スーパーで買い物をしてレジで計算するように金額が加算されていく、経済原則にもとづき合理的であるにちがいない。だがやがて、道を尋ねる、答えを聞く前にカードを切る。転倒する、起こしてもらう前にカードを切る。墓場にはいるまで、反則切符を切りながら生きなければならない社会になる気がする。合理主義ということは、すべての物事を論理的に秩序たてる、組織化する、規則にもとづき決めていく。だんだんと人間の感性と情感が失われていくようだ。

七月下旬、S有料老人ホームに入居申し込みをした。私はケアハウスおとがわの居心地がよかったため、できるだけ遅く入居したかったが、施設側の要求から九月一日契約、入居予定を九月十八日とした。

八月、室内で転倒した。30分ほど試行錯誤をしたが起き上がれず、ナースコール釦を押した。歩くのが危なげなことと、すぐ疲れを感じることから、買い物がますます難しくなった。やがてトマトの包み二パックをレジの台から上げられずショックを受けた。財布からお金を出しにくい。運搬車から買った物を降ろせず通行人に手助けしていただいた。その後、買い物はN君のお袋さんに同行していただくようになった。

九月に入ってますます悪くなった。友達と外出したとき、缶ジュースを口まで持ち上げられず自力で飲むことができなかった。箸でものを挟むこと、腕を上げることが難しくなった。腕をテーブルで支えて、てこの原理を利用して食事をした。問題は食堂まで歩いていくこと、いつ転倒してもおかしくない状態になった。入居予定の十八日まで待てない、入居日を一週早めようかと真剣に考えるほどの状態になった。

九月十八日、予定通りS有料老人ホームに入居した。ケアハウスいたときの緊張感から解放されたからか、入居した途端に症状が急速に悪くなった気がした。岡崎から鳴海まで運転したのを最後に車の運転をギブアップした。昨年の夏に購入した新車は数年乗れる、来年五月の自動車免許証の更新ができると思っていた。運転することはともかく、駐車場まで歩くことが難しくなり車の運転を断念することにした。

ALSに罹ってからまだ野菜作りができる、自動車の運転ができると自分を励まし、慰めて生きてきた。次々とその支えが崩れ去り、ついに自分の意思で自由に外出できない、すべてを他の人たちに依存しなければならない、行動面で自分の主体性、自立性、独立性を失われ、社会から隔離された自分を悟った。

S有料老人ホームは、丘の中腹にあり、五階にある私の部屋からの眺めがよい。遠くに見える中京競馬場の建物が天気、時間によってさまざまな様相を示す。モネがルーラン大聖堂、積み藁を描き続けた気持がわかる。ホームは十年程前に開所した介護付終身利用型の施設である。定員76名、一般居室51室、介護居室6室がある。

入所者は若い人でも七〇歳を越え、平均年齢は八一歳。人間、八〇歳になると自分の殻に閉じこもってしまうからか、食堂で一同が会しても会話がはずむことがない。食事の後、それぞれの部屋に静かに帰って行く。ケアハウスおとがわと入所者の社会的な階層がちがい、校長先生が5名、教員、大学教授、医師だった人がいるという。おとがわと異なり陰口を言う人、それを聞いて怒る人などいず、自分が築いてきた品位を物静かに保って、人からの干渉を嫌い、自分の人生の想い出を小箱に閉じ込めて、じっと神様からの呼び出しを待っている。人間は人とのつながりを求める社会的な側面と、孤独を楽しむ側面の二面性をもっている。現役の頃は、社会的な関わりが不可避であったし、それが生き甲斐の対象でもあった。人はひとりで生まれ、ひとりで死ななければならない。年老いるにしたがい社会性を失い、あの世へ行く準備をするのか、あるいは、幼児の状態に戻り母親の胎内に回帰するかのように、孤独の世界に沈積していくのかしれない。

ケアハウスおとがわにいた頃、理事長と入居者が楽しく暮らす方法について話し合った。趣味で楽しむことができるのは、生活のなかで役割・義務を果たし、忙しいなかで時間を割いておこなうことにある。絵を描く、俳句をつくる。入選しようとするなど、目標をもつことで喜びが生まれる。趣味が本職になってしまったとしたら、厳しさだけが残り楽しみでなくなる。時間がたっぷりあり、目標もないまま趣味を楽しむとしたら、ただの時間潰しとなって、喜びと新たな感激をもつことができないであろう。

ケアハウスおとがわで、早起きし体操をして芝生の草取りを提案したことがあった。はじめの日に雨模様で、天気が悪く集まりが少ないこともあって、その日かぎりで終わってしまった。理事長は、施設側の作業を入居者に依頼すること、入居者者が積極的に行事に参加しない様子をみて遠慮したようだった。体操さえできなくなった私は、第1回のチラシを作っただけで行事を進める気力がなくなった。

ケアハウス、特別老人養護施設、そして、有料老人施設が、食事、風呂を準備し、必要に応じて介護のサービスを提供するだけであったら、卵を生産しない鶏を飼う鶏舎を運営していると変わりない。福祉施設の役割は、年寄りたちを長生きさせる、老後を慰め・潤いをもって過ごすため趣味の会をつくる、ボランティアによる慰安の会を催すだけでは十分でない、生きがいのある老後の場を提供することのはずである。

生きがいは、どのような形であったにせよ、自己実現することから生まれてくる。それは、社会・生活のなかで役割を果たすこと、自分が人に役立っていると自覚できることであろう。逆に能なし、役立たずと嘲られ、活動的な生活の場から締め出され隔離されたとしたら、どのように能力があったとしても、生きる気力を失って神経症になるか、痴呆の症状があらわれる、ことによると反社会的な行動にでることになる。それは本人が不幸を背負うことだけでない、そのつけは、家族と社会が負担することになる。

年寄りが社会から孤立して、趣味、ゲートボールをして時間を潰す、あるいは、あの世に行く間際になって、いまさら天国に持って行けないカネ儲けなどして、損・得、名誉にこだわることもない。若者たちに寄りかかる、若者の邪魔をするだけであったら、家族と社会から疎まれ、自分をますます惨めにしていくだけだ。折角、神様から与えられているといってよい命である。生きがいを自分の生活の場で見つけたいものだ。

家族制度が生きていた時代は、年寄りの役割が家族のなかにあった。電気製品のない大家族の生活のなかで、年寄りが果たす役割が大きかった。ことに、農・漁村では年寄りたちは生活を支えるノウハウをもち、現役の戦力であることから、権威をもちつづけることができた。彼らは病気により脳障害を引き起こす他、痴呆になる余裕がなかったにちがいない。核家族化して家族制度が崩壊した現在は、年寄りたちの役割を取り去り生きがいの場がなくなった。能率・効率を重視し、心のゆとりよりモノを重視する社会、移り変わりが激しい、情報が溢れて意識の多様化は、家族の団らんの場を奪ってしまった。

年寄りの生きがいは家族の枠をとびだして、社会・コミュニティのなかで役割を果たす時代になってきた。私の家の近くである老人は、家の近く、国道の両側100メートル余を掃除するのが日課になっていた。些細なことである、だが、それだけであっても、彼にとって清清しい毎日を過ごすことになっていたことだろう。

有料老人ホームをはじめ公共の福祉施設で生活する入居者は、ホテルに宿泊する顧客と異なり、生活の場を提供されていると考えればよい。自分たちがお互いの能力と才能を活かして、助け合って生きればよい。廊下を掃除する、草花を植える、管理業務を手伝う、身体が不自由な人を手助けする、老人ホームと固定せず、鍵っ子の集会場を併設し、お祖父さん、お祖母さん振りを発揮するのもよいであろう。自立した人、要介護者、あるいは、老人だけを区別して入所するのでなく、いろいろな人が混在する設備をつくり、それぞれが役割を果たすことができるコミュニティがあってもよい。

人はそれぞれ考え方が違う。残りの人生を趣味で、散歩で、ことによると、ボケッとしていたい人もいる、老後の過ごし方を強制することはできない。問題は、年寄りたちが社会参加に躊躇する雰囲気をつくり、老人たちを社会から隔離し、孤独の世界に追いやり、生物としての生命の延長だけに注目する仕組みにある。医療費30兆円のうち老人医療費11兆円、その内1/3は死の直前に費やされる医療制度をヒューマニズムといい、自立した年寄りを空調の効いた個室に押し込め、餌を与えてゲートボールで健康を維持することを福祉国家と考えるところに、根本的な歪みがある。

九月三十日、風呂の帰りに廊下で転倒した。救急車で藤田保健衛生大学病院に運ばれた。意識が戻ったときは病院に着いていた。検査の結果は異常がなかった。翌朝、前日の後遺症からか、椅子に座る時ふらついて転倒し冷蔵庫で頭を打った。ホーム側で車椅子を用意してくれた。左手は全廃、右手も力がないことから車椅子を運転できない、食堂との往復は、スタッフの手を煩わせることになった。

十月 U牧師に介助していただき、清水聖書バプテスト教会主催、バプテスト障害者伝道協力会後援、富士市富士ハイツで3日間開催された「野の花フェロシップ」に出席した。出席者は関東、中部地区の聖書バプテスト教会から約70名、身体障害者が20名ほどいた。

 テーマは「すべての人に開かれた教会という視点から、高齢者、身体障害者がともにすごせる教会をめざして」、集会とパネル・ディスカッションがおこなわれた。証では、身障者の人たちが、主をほめたたえることで、たくましく日々を過ごしている幸せを語った。名古屋教会からKさん、小学生だった頃、交通事故にあい、手足が自由で車椅子の生活を強いられている女性、20歳くらいがいた。いつも幸せに満ちた微笑を浮かべていた。彼女ほどすがすがしい微笑みを見るのは久しいことだった。終日、U牧師に介助していただいた。入浴は信者の方、2人がかりで世話していただき、久振りにゆったりと入浴ができた。

 人の幸せは「愛されることでなく、愛することだ」と思う。愛されることは、いつか愛を失う不安をはらんでいる。愛することは他力に依存せず、自分の意思により主体的・能動的に行動できる。難しいことは、自分がつくった仕様書に沿った対象を見つけることでない。愛する対象を発見できない原因は、対象の問題でなく自己の欲求にこだわっている自分の心の内にある。

 ギリシャ語では、「愛」について3種類の言葉があるという。男女の関係で代表される「エロス」、兄弟愛、友情関係など対等の関係でみられる「フィリア」、そして代償を求めずに自己を与え、他を生かそうとする「アガペー」がある。

子どもの頃、我を忘れてものごとに熱中したものだった。青春時代には、すべてを忘れ恋人を好きになったものだった、親友とは固い絆で結ばれていた、すべてを忘れて熱中できる愛の対象をもつことができた。エロス、フィリアは、価値を求める愛である。やがて、対象が自分の期待どおりにならず、愛を失う時が訪れる。しかし若いときは、自分の力で世界を切り開いていく情熱をもつことができた。期待が裏切られたら次の愛の対象を見出すエネルギーをもっていた。たとえエロス、フィリアであろうと、感情を純化し理想に燃え、すべてを忘れて熱中できる愛の対象をもつほど幸せなことはない。

年とるに従い理想と現実の違いを学んだ。望みを満足させる努力の難しさを知ると同時に諦め方を知った。肉体的な快楽を求める欲求が理性を蝕んできた。富と権力の甘さはより多くの蜜を求めるようになった。老いて肉体的な衰えを知り将来への夢と希望を失い、自分の人生の終末を自覚したとき、一度失った愛の情熱を取り戻すエネルギーをも消滅した。
寂しさは、美味しいものを食べる、買い物をする、旅行をして紛らわせることができる。だが、忍び寄る老いの孤独感、不治の病からくる不安を、心の内に抑え込む、代替の欲求で補償する、現実を否定し諦めるなどの防衛機制を働かせて逃げられるものでない。逃げ切れないことを自覚したとき、より深刻な苦しみが襲ってくる。

この孤独感をさける方法は、自分がおかれた現実を素直に見つめること、自分の弱さ、人間の弱さを認識することから始まる。自分の弱さをとおして永遠・超越的な絶対主の存在を信じ帰依する純朴・敬虔な気持ちになって、心の支えとなる対象、アガペーの対象をもつことであろう。

宗教を揶揄する意味を含め「信じるものは救われる。」という。敬虔な祈りをしている人たちを見ると、その美しさに見惚れ羨ましく思う。自我を生きている中心に考えているから悩みと苦しみが生まれる。自己の存在を忘れて他を愛する、超越的な力・絶対主・神に我が身を委ねる謙虚さをもてたら悩みと苦しみが和らぐことだろう。しかし、絶対主・神の存在を信じることは、文字を読み、人の話を聞き、意識で思考することで得られることでない。知識を得るように、対象と自己の意識が対峙するのでなく、自己の主体を宇宙的な大きさをもつ混沌とした世界のなかに入りゆだねることである。

言い換えると、この宇宙を支配・コントロールしている絶対主から発する波動と、仏教で人のだれもがもっているという仏心、あるいは、キリスト教で考える神の啓示を聞く能力とが共振することである。それは、加えられた微弱な振動周波数が、物性がもつ固有振動周波数と一致すると大きな共振現象を引き起こし、厚い鋼板さえ破壊するに似て、前向きに生きる大きなエネルギーに生まれ変わる。

この共振現象が励起しないのは、外部から刺激する信号が微弱である、加えられた周波数が、個人がもっている固有周波数と一致せずに共振現象が起きない、あるいは、歩んできた人生のなかで身に付けた欲望という汚毒によって、仏教で言う「とらわれのない心」、キリスト教で言う「幼子のように」という純朴な心が隠されてしまっているといえる。

U牧師の誠意と熱心さに応えることもあって、キリスト教に関する本、聖書を読みはじめた。だが好みの本を読むときのように引き入られることがない。その原因は、信仰を活字で理解し、意識で納得しようとしていることに気づいた。道元は「仏道をならふといふうことは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり。」といった。まず、自我意識を棄てること、棄てるという作為することをも忘れなければ、神の啓示を聞き、祈りの意味を理解し、神の存在を自覚できないことを知った。その後、宗教的な目覚めについて意識して考えないことにした。機会が、必要があればその出会いがいずれ訪れるであるだろうと考えた。

宇宙的な彼方の絶対主から発せられる波動との共振は、人類が歴史のなかで育み築き上げてきたいずれの宗教からも知覚できるであろう。だが、作為的に自己を特定の信仰に迎合し、自己の自立した思考力、私が培ってきたアイデンティティを失いたくない、信仰のなかに埋没することはしたくない。外面的にはおなじであったとしても、信仰を人生における悩み・苦しみの逃げ場所・言い訳の道具にしたくない。神に捧げる敬虔さ・献金を種にして、神に報酬を要求するようになりたくない。神に告解し赦しを乞うことで、人を傷つけた罪を免責にしたくない。自分の勇気のなさから現実的な行動がとれないとしても「人を裁くのは神の領域である」といって社会の不正に目を閉じたくない。神と強力な絆をもつことで、人間との絆を忘れたくない。どのような宗教を信仰したとしても、この私がこの宇宙のなかで、ひとときの時間に存在する、生きることの意味と意義を自分の意識で、思考しつづけたいものだと思う。

十月末 学生時代からの友達であり、飲み友達であったSさんが勧めていた断食療法をはじめた。一〇日の予定であったが、Sさんの強い勧めで一四日に延長した。本来、断食療法は、道場でないと危険といわれるが、ホームの協力でおこなうことができた。断食療法は万病に効くという。私の狙いのひとつは、断食療法で推奨するように、生理的に体内をリフレッシュすることだった。

次に大きく期待したことは、断食をすることで頭脳が変性意識状態になり、日頃の精神世界と別な世界をかいま見ることだった。便秘気味になり瞑想をやめたことからか期待した感性をもつことができなかった。便秘で苦しまなかったらさぞ断食による気分の爽快さを十分に楽しめたことだろう。

今回の最大の狙いは、断食が苦しくないだろうかということ、僅かな日数であったが自殺の擬似体験をすることであった。佐江衆一「香洛」で母親が断食して命を断つ場面がある。死は美しくなければならない。深沢一郎「楢山節考」のなかにいた又やんのような醜さがあってはならない。生に執着すること、肉体的な苦しみをもち、ぶざまな死にざまを見せたくない。今回の経験で環境が許してくれるなら、環境が私の意志を抑圧する権利はない筈だが、断食による方法がもっとも好ましいようだ。まず、肉体的な苦しみがない、ぶざまな醜悪さを見せなくてすむようだ。

最大の喜び・感激は死に至るまで、手持ちのオーデオセットで、バッハのピアノ曲、宗教音楽を聴きつづけられる。作曲家武満徹は、作曲を始めるときいつも「マタイ受難曲」を聴き、死に際して「マタイ受難曲」を聴いたという。彼はさぞ幸せな死への旅路であったであろう。釧路湿原で野垂れ死にした人の記録によると68日生きていたという。スタッフの暖かい眼差しを受けながら、死に至るこの長い時間のあいだバッハを聴きつづけ、自分が生きた人生を振り返り、生きた意味について思索する時間をもてるほどの贅沢な死はない。

生から死に至る過程は、人間にとって最大のイニシエーションである。この最大のチャンスを、病院のベッドに伏し、何本かのパイプにつながれ、強制的に呼吸されつづけるほど苦しく惨めなことはない。まして、麻酔注射をされて人間としての自覚をもたないまま死ぬほど残酷なことはない。

臨死の体験者の話によると、死に至る過程で変性意識状態を経験するという。本人が自覚しない状態で突然に死亡したとしたら人生の最大の山場で、ドラマを映しだすフィルムが突然に切れたようなものだ。死に至るこの最大のイニシエーションで、どのような思考の世界が展開するか楽しみだ。変性意識状態で聴くレクイエム、「チベット死者の書」は、現在と全くちがった形で理解できることだろう。

この世から別れるにあたり、お世話になった人たちに感謝の挨拶をしたい、「今度はお前の番だ」という絶対主の言葉に、今まで生かしていただいた感謝を言葉にしたい。幸田露伴は娘の文さんを枕もとに呼んで、後事を託した後「じゃ俺は死ぬよ」といって息絶えたという(「死について考える」遠藤周作 光文社)。年寄りの死には、仰々しさ、麗々しさ、まして悲しみなどいらない、新しい旅立ちとしての、アッケラカンとした明るさがあってよい。だが、現実は期待するように、気楽に音楽を聴き、思索する状態でないおそれがある。嚥下障害により食べ物を気管に入れて肺炎や窒息を起こす、呼吸筋が弱くなって痰が出ない、やがて呼吸が困難になって、悶え苦しんでいるかしれない。

断食中は運動をしないこともあって、体重は5.5kgまでしか減らなかった。断食が終わり食事は朝・夕食、茶碗七分目の玄米の重湯とりんご汁から始まった。2週間目から玄米のおかゆ、野菜と魚を少し食べる段階に入って体重が増えてきたのに驚いた。
千日峰行の行者、酒井老師の修行中の日課は、23:50起床、滝で身を清め1時間のお勤め、1:30出発、叡山の山中を飛ぶように歩き9:30帰着、12:30朝食、お勤め、18:30夕食、20:30―21:00就寝、この激しいスケジュールをこなし、食事は冷やしうどん、ジャガイモの塩蒸し、豆腐の胡麻味噌あえの2食だけ、長い間、ご飯を食べたことはないという。(「阿闍梨誕生 和崎信哉 講談社」)

 高木善之は、地球環境の深刻な実態を伝えると共に「美しい地球を子どもたちに」と呼びかけ、「私たちにできること」の多くの提案活動をつづける「地球村」の代表である。(「オーケストラ指揮法」高木善之 総合法令) 彼は一日、1食、大小便1回、睡眠時間は平均2―3時間の生活で、食べない、出さない、汚さない、寝ない、徹底したムダを排除した生活を過ごしているという。

日本が第二次大戦に負けたとき、私は小学校5年生だった。成長期だったとき食糧難でろくな食べ物などなかった。今では決して食べることができない不味いサツマイモ、カボチャでもあればよいほうだった。しかし、今の子どもたちより頑張りがあったように思うし、それほど見劣りのする身体になっていない。人間の身体の内部は、栄養学で説明する栄養素と関わりのない自己保存のメカニズムをもっているようだ。

私たちは必要以上に食べ、消化器系を酷使し、血を汚し、大量のうんち・大量のゴミをだし、おまけに贅沢病まで併発している。人間は自分の欲望を満たすため、自分で自分の身体を痛めつけている、自殺行為をしているとさえいえる。日本ヴィッパサナーがおこなう10日間の瞑想コースでは、朝・昼食は玄米のおかゆをお椀に一杯ていど、夕食事時に初心者は、バナナを半本、またはりんご半分、2回目以上の受講者には果物もなく、ハーブティ、紅茶を飲むだけだった。運動しないから必要なカロリーは僅かでよいだろうが、就寝時に胃の中は空っぽの感じ、空腹感より爽快感を感じたものだった。

私がアメリカの社会心理学者マズローの欲求5段階説を援用し、第1段階の食欲・性欲の欲求に執着しているのは、人間として低レベルの証拠だというと、グルメ指向のSさんは、「食は文化だ」という。ユーゴスラビア、ネパールへ行った経験によると、彼らはいつも同じ種類の食事をしているようだ。彼らの生活の様子から、彼らは食事を楽しむ習慣がないでないかと思った。

しかし一方、世界のすべてのグルメが氾濫し、家庭で各種の料理を楽しむ私たちの生活を、一概に文化水準が高いと自慢できない気がする。私たちはこの変化に富んだ食事ができる幸せを感じていない。むしろ、TVに映し出されるグルメ番組を見ながら、次の欲望をかきたてている。自給自足の生活をして、毎日毎食、おなじ食事をする人たちは、自分たちが不幸だなどと思っていないであろう。むしろ私たち以上に、自然の恵みを受け、今日の糧をいただけることを神に感謝しているにちがいない。

阿闍梨、高木善之を見習い、食糧難であった時代を回顧する、自給自足の生活に戻る必要などない。人類はそれぞれが、それぞれの役割を果たすこと、分業をすることで文明が発達してきた。先輩たちが築いてきた食文化を楽しみ、豊かさを享受できることは幸せなことだ。共に食事をすることで会話がはずみ、仲間ができ、愛が生まれる。だが、欲望はどこまでも膨張する、どこかで歯止めをつける、物事の本質に立ち返る必要がある。

人間がもつ判断の基準、モノサシは不思議なものだ。モノサシの絶対性など全くありはしない。私たちの心のもち方ひとつで、モノサシの基準はどのようにも変わる。好き・嫌い、そして不満は、モノが有り余ることからつくられる。自分が思考する原点、自分が判断するモノサシの基準をもたないと、メディアから送られる情報に振り回されることになる。不満・怒り・不安・悩み・苦しみ・不幸感は、自分がもっている伸縮自在なモノサシで自らがつくりだしている。

三部

私は六七年、会社から金を借りささやかな家を建てた。当時近くに家がなく一軒家であった。家を建てた一年後、大阪に転勤になり退職まで社宅に住んでいた。退職し岡崎に帰って来たときには、近所に家が建ち並んでいた。私は私の余生を過ごす土地で、子どもの頃のような隣人たちとの付き合い、調味料を借り合う仲、余分なものを譲り合う仲、人と人の交流の場を期待していた。

社会人類学者中根千枝は、家を塀で囲むのは日本固有のことだという。それぞれの家を囲む塀は、土地の境界を示すだけでなく、挨拶と無難な会話を交わすことがあっても、隣人を寄せ付けない防護壁になっている。小さな庭をもち塀に囲まれた分譲住宅には、私が子どもの頃に過ごした長屋の面影がなくなっていた。

150坪ほどの土地で野菜をつくっていると、独りで消費しきれるものでない。余剰の野菜を近所の人に分けてあげるとき「余っているものです。」と言ったにかかわらず、野菜の価格とおなじお返しが戻ってきた。別の人に、仏教でいう三輪清浄の布施を例え「布施をする人のこころが清らか、布施をもらう人のこころも清らか、布施も清らかでなければならないといいます。お返しは考えないでください。」と言ったのにかかわらずお返しがきた。ある人に「畑から取っていってください」と言ったら、必要なとき何回も来ればよいのに、これを機会とばかりごっそり持っていった。

近所の人は、野菜が有り余っていることを知っている。どうして分けて欲しいといって来ないか、無料では気を使うというのなら半値で分けてあげるのにと思っていた。その後、特定の人を除き近所の人々に分けてあげないことにした。今の日本では、人の善意を素直に受け取る感性を失ったようだ。即物的に人の感情、行為さえモノの経済価値に置き換えて計算する。そして、人から恩を受けたくない、引け目をもちたくない、弱みを見せたくない、人に頼みごとをするよりスーパーで買うほうがましだと考えている。有機栽培で、健康的で、美味しく、新鮮な野菜であるのにかかわらず。日本人はウサギ小屋に住まなくなってから、昔の日本人と変わってしまった。

人々はこの物質文明のなかに埋没し、ユングのいうペルソナ、仮面でガードし、自分の家族の豊かな生活とプライドを守るために身構えて生きている。モノが溢れていなかった時代は、人々はもっと心のゆとり、心の豊かさをもって生活していたはずだ。くつろげる場、心を開いて話し合える場が家庭だけであったとしたら、社会の活力が失われ明るい未来を築くことができない。それぞれの個人がもっているはずの善意と理性は、高度に進んだ資本主義経済システムに飲み込まれ、人間の感性を失ったシステムが大手を振って社会を突き動かしている気がしてならない。

私は妻が身体障害者、私がALSに罹ったお陰で、私が今まで歩んできた道、サラリーマン時代に培った、能率と経済性、物質優先と全くちがう、別の世界の心温まる人たちと知り合った。

S先生、70数歳、山形の羽振りのよい旧家に生まれた。女学校の頃、ヘレンケラーに感動して、聾唖学校の教師になり60歳まで勤めた。定年後は、自宅から離れ夫と別居し作業場で寝起きし、生活のすべての時間を身障者のために費やしている。夜は身障ための活動、ボランティア、環境保全、平和運動の会合に出席して作業場に帰るのが遅い。夜遅く訪れると、夕食をしているのに出くわすことがある。スーパーで買った粗末なお菜を皿に移すことなく、トレーに乗せたままで食べている。

彼女は何度か海外旅行をしているが、すべては身障者の付き添い、多くは盲人の介護のために同行する。旅行費用を自己負担するのはともかく、すべての時間を身障者のために費やして日本に帰るなど、私にはとうてい耐えられることでない。彼女の楽しみは、年に数回山登りすることでしかない。彼女は子どもに財産を残さないという。人の話では、作業場をつくるのに退職金のすべてを使い果たしたし、今までの活動内容を考えると、それほどの財産は残っていないであろう。

作業場を建てたとき夫に、作業場の理事になるよう名前を貸して欲しいといって断られたという。彼にとっては、自分の妻を奪った身障者たちに、憎しみをもっているとしても、同情、協力する気になれないだろう。小学校の校長先生であった彼は、自分で酒のつまみをつくりながら独り暮らしをしている。絵の先生であった彼は、気ままに国内・海外へスケッチ旅行にでかけている。

Uさん、70数歳、私が図書館の階段を上がれなくなってから、希望の本を貸り出してくれた。彼女は夫が設立し、今では息子が経営する中小企業で雑用を少し手伝い、その他の時間は仲間達とボランティア、環境保全、平和運動の会合に出席する。新聞・雑誌・本をよく読み、彼女は暇という言葉をしらない。

彼女が私に会うと、現在の政治の流れに強い批判の言葉を語る。彼女に敬服することは、活動団体の役員になって、華々しく活動に参加していることでない。彼女は一市民として集会に積極的に参加する。彼女の口癖「一人でも多い方が盛り上がりますからね。」といい、署名活動に積極的に協力し、機会があるごとに意見の表示をする。批判の気持ちを行動に示さない私は、彼女の前でいつも恥ずかしく思う。

資本主義自由経済には、修正能力はあっても本質的な自浄能力などない。神がいなくなった現代に、アダム・スミスがいった「見えざる手」、マックス・ウェーバーのいった「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などに期待できるものでない。福祉政策をすすめて弱者を救済するといっても、資本主義であるかぎり強者の論理が優先し、実力がある、運に恵まれた、要領よく立ち回ったものが勝つ。景気をよくして、雇用を増やすためには、けちなことをいわず、どんどんモノを粗末に扱い購買力を高めなければならない。効率・経済性を高め豊かな生活を守るためには、オゾン層の破壊対策、熱帯雨林を保護、温暖化防止などいっておられない。

この流れを食い止めるのは、政治家、企業家、学者達でない、彼らは人としての感性を失い、資本主義社会、競争社会の歯車になっている。社会を変革する力はUさんたちのように、市民の一人ひとりがもつ社会意識、市民運動としての力でしかない。船井幸雄は「全体の7パーセントの人が同じことを思えば、全体は大きくその思いの方にかわる。」という。(「EVAHへの道」PHP研究所) 歴史は私たちに、かっての帝国が崩壊した事実を教えてくれる。国際社会のエゴイズムが錯綜するなかで食料の自給率が30パーセント以下、エネルギーの自給率が10パーセントに満たない国が、消費を美徳とした経済優先主義を信奉し、モノの豊かさだけを追い求めていて、いつまでも安泰であるはずがない。

過去の歴史は、一国家の衰退を示してきたが、環境の問題は地球規模で広がり、人類全体の存亡を左右するまでになっている。過去に日本の知識人を魅了させた社会主義は崩壊した。だが、100年後の歴史の教科書には、資本主義自由経済というシステムは、物質的な豊かさを求めるために、地球から次代への資源を収奪し食いつぶし、地球を汚染して、自分たちの将来を予告した多くの生物種が滅亡していたのにも気づかないふりをし、地球上のあらゆる生物の生存権を蝕んできた、と記述される気がする。もし、地球が存続していたら・・・。

Sさん、50数歳、音楽会に同行していただいた。市のボランティアセンターに所属し、身障者のための料理教室の開催、病院などで活動して、自分の趣味の時間をもち、家事をこなし、3つの時間を巧みに使い分けている。彼女には、音楽会に同伴していただいた。彼女はいつも「忙しいですよ」という。彼女のスケジュールに暇がない、充実した人生を歩んでいる。

ケアハウス「おとがわ」の理事長、65歳はユニークな男である。彼の祖父は岡崎の中心を流れる乙川を堰き止め、水車を動力とする繊維会社を始めた。彼は子どもの頃はかなりの家の御曹司だったにちがいない。繊維産業の衰退にともなって20年前に廃業し、保険会社の社員になって、かなりに営業成績を上げていたようだ。

私は彼ほど仏教でいう「少欲知足」に徹して生きている男を知らない。私がいかに慎ましい生活を信条としていても、たまには好みの美味しい食事をしたくて外食をする。彼は外出してもできるだけ家に帰ってきて食事をとる。やむおえず外食したとしても高価な食事をしない。彼に言わせると、高いカネを払ってもその価値がないという。

会社に勤めていた頃、VA、価値分析を学んだ。企業でムダをなくし合理化を進める手法で、物・カネ・作業で必要最小限の価値・機能だけを残し、余分なもの、不必要な価値をすべて切り捨ててコストの低減をはかる。彼は固有の価値基準をもち、すべてのムダを排除していく、贅沢・流行り・他人の眼・世間の評判に価値を認めない。

彼は国内旅行、まして海外旅行に興味がない。ただ一つの趣味はジャズを聴くこと、それも高校時代に聴きはじめたトラッドジャズしか聴かない。たまに名古屋へ出かけたときレコード店で、1時間か2時間かけて自分の趣味にあったCDを5−6枚探し出す。彼の唯一の贅沢は、神戸までライブを聴きに行き、仲間と話をすることだ。

私はジャズをあまり聴かないが、ジャズを聴く最高の楽しみ方は、演奏が多少下手であっても酒を目の前にして友達と聴くことだと思っている。でないときは、できるだけよい再生装置でよい音が聴けないとしたらジャズを聴く魅力を感じない。彼はどんな高価な再生装置でも、ライブの音が再生できないといい、再生装置にこだわらない。

彼がいうもうひとつの趣味は空想・夢を見ることという。ある社長であったら、新戦略をたて、具体的に進める企業展開の内容を頭のなかで発展させていく。あるいは、都市開発ディベロッパーになり、昔は華やかだった岡崎の中心街である康生町の開発プランをたてる。彼はイメージが次から次へと広がる、気持が大きく、おおらかになってくる、第一、おカネがかからないし、どこでもできる楽しみだという。

私は彼を清貧の思想を身につけ実践している人と思っている。清貧の思想というと良寛の名があがるが、私は清貧の思想の持ち主は、決して世捨て人でなく、生活にゆとりがあるなかで慎ましく生きる人、その慎ましさを意識せず、自然体で生きている人だと思う。
彼は彼のアイデンティテイだけを残し、その他のすべてを切り捨てていく。彼には世間の眼、はやり、常識、快楽的な欲求に無関心である。現在の物質文明に抵抗するという気負った様子も見せない。自分がもつささやかな欲求にもとづき、大河に流れる小船になったように、流れに任せて生きているようだ。
その他、社会福祉事務所の皆さん、デーサービスの人たち、S有料老人ホームの介護職のみなさん、日本バプテスト岡崎教会のU牧師がいた。

福祉事業の現場に携わっている多くの人たちをみると、心の中にゆとり、生活のなかで明るさと輝きがある気がする。老人介護はきれいな仕事でない、格好のよい頭脳労働でない、気を抜けない責任をもった肉体労働である。彼女たちの楽しげな仕事振りを不思議に思ったものだった。

4年生大学で情報処理を勉強し、銀行系のプログラム開発をしていたAさんがいた。デーサービスをしていて、収入は半分に減ったのにかかわらず現在の仕事が楽しいという。Mさんはピアノを二歳から習い始め桐朋学園を卒業し、ドイツに留学してプロのピアニストの道を目指し演奏会の活動を始めていたが指を痛め断念したという。彼女は28歳、結婚して子どもはいない。ピアノの家庭教師をしながら老人介護のパートタイマーとして働いている。「ピアノの演奏家として十分なことをしてきて後悔はない。私はいま第二の人生を歩み始めている。楽しいですよ。パートタイマーでなく社員として働きたい、夜勤でもやりますよ。」と明るい笑顔で答える。付け加えると、おとがわを出るにあたり、理事長の友人が寄付したスタンウエイで、私のたっての願いであったバッハ作曲「平均率クラヴィア曲集第1番第1曲」、そして、いくつかのショパンの曲を弾いてくれた。観客は私一人だけの豪華な演奏会だった。

Oさんは、老人介護の仕事は働きがいがある、楽しい仕事ですよと語る。摘便という作業がある。肛門に詰まっている便を指で摘出する。摘出して年寄りの安堵と感謝の表情、そして、大量に出た便を見ると「ヤッタ」と喜びを感じますとう。Mさんは、事務の仕事より現場の仕事が楽しい。販売で自分が勧められない商品を売るほど嫌な仕事はない、老人介護の仕事は私に合っている、人との関わりが魅力だという。

S有料老人ホームでは、痴呆の人、障害の重い人たちをケア室で預かっている。彼女たちは、痴呆の人たちを世話するのが楽しいという。入所した頃、異常行動を示す彼らが、人格を尊重して世話すると見る間に回復し明るくなる。彼らの思いもよらない発想を聞き、身が洗われる気持になることがある。アイヌでは老人のわけのわからぬもの言いを「神用語」といい、あの世への旅立ちの準備から神に近くなったと考える。彼女たちが彼らから感じるすがすがしさは、彼らが純朴になったこだわりのない言葉と、彼女たちの純朴な感性が共鳴して彼女たちに感動を与えているといえるだろう。彼女たちが生き生きしているのは、困っている人たちを助ける行為のなかで、自分が役だっている喜びから、自分自身の心が純化されるにちがいない。

退職後に、月に一度のリサイクル活動に参加したことがある。私はボランティア活動を、奉仕する、慈善をおこなう、自分がもっている能力を他に与えるものと考えていた。参加している人たちを見て私の誤りに気づいた。彼らは与えているなどという高慢な気持を全くもっていない。いろいろなグループから集まった人たちが、ボランティアの仕事を通じて出会いを楽しみ、生きている喜びと充足感を彼ら自身が活動を通して与えられていた。ある国際的なボランティア活動をしている人は、ボランティアは「一度したら止められない。この喜びを言葉で人に伝えられない。」といっていた。

人間の喜び・快感は、表面的なものから根元的なものへと階層構造でなりたっている。さしずめ、自分だけが美味しいものを食べることから始まって、家族・仲間と共に楽しむことでステップアップし、やがて、見ず知らずの人たち、より多くの人たちと喜びを分かち合うこと、人のために役だつことで喜び・快感が高度化する。彼女たちは人間だけがもつこの根元的な喜び、人間の本性を刺激するこの快感を味わっている、物質優先、経済至上主義の世界で生きる人には、この心の充実感をもつことができないにちがいない。

健康であれば、有機野菜をつくりながら自然の偉大さに触れ、スケッチを描きながら国内・海外旅行をして、旅先で美味しい食べ物を食べ、絵を見てその素晴らしさに立ちすくみ、コンサート、オペラを聴いて感激することができる。若いときはそれらを果たすのが夢だった。私たちは現在の科学技術の恩恵を享受し、人類が培ってきた文化に直接に触れ感嘆することができる。大都市に住めば世界中のグルメを口にすることができるし、海外に足を延ばして楽しむことさえ難しくなくなった。これらは歴史上のどの専制君主でも経験できなかったし、私たちの親の世代でも夢のようなことだった。これは外見上では華やかで、贅沢な格好のいい人生の過ごし方だ。しかし、心の中を覗くと、なお満たされない空洞があることに気づく。

「老子」に川向こうの国境から鶏の声が聞こえる村に住む農夫の話がある。彼は現在の衣食住に満足し日々の生活を楽しんで、手の届きそうな隣国と往来しようなどと思わない。人類の進歩は、現状を分析しもっと便利に楽をしようとする努力、他と比較することから新たな刺激をえて改善と創造することから始まる。これは別の角度から見ると、現状の分析は不満を見つけることであり、他との比較は欲望を膨らませ、妬み、嫉み、争いを生む原因になる。老子は知識が増すこと、相対的な差別を生むモノサシを持つことが幸せだといわない。彼は華やかで、贅沢な格好のいい人生など、ますます人を不幸にするだけだという。

 健康で一人暮らしをしているとたまに友達が訪れるだけ、外出せず終日家にいるときは、畑に出て近所の人と会わないかぎり人と話をすることはない。もし倒れて電話口に出ることができない、急死したとしても誰も気づくことはない。新聞屋が不審に思わなければ、隣りの人が気づくまでにかなりの日数がかかるだろう。

猫好きの人の話によると、猫は自分の死を知ったとき、静かに死を迎える場所、自然に帰ることができる場所、あるいは自分の醜態をみせない場所を求めるという。死は美しいものでない、人生で挫折した姿を見せるようなものだ。私は死を迎えたとき、あるいは死後、友人たちに来て欲しいなど思わない。まして、疎遠になっていた人がもっともらしい顔をして来るほど不愉快なことはない。福沢諭吉、小泉信三の遺言は「死に顔を見せるな。」だったという。私の死に顔は見世物でない。死は奥深い森林のなかで老木が突然に倒れるのと同じ、どさっと倒れた後の静寂さが望ましい。とはいえ、一ヶ月のあいだ誰も気がつかず、あとで人に迷惑をかけることはしたくない。

病院で多くのパイプにつながって延命治療をうけ、国の健康保険予算を蝕み、コンベアーの上を流れる物体を眺めるかのような医師の眼のもとで死にたくない。人生の最後には、安らぎと休息の時間が欲しい。インドで聖地に行けば、死を予感した人たちが経典を読み静かに死を待ち受けているという。一軒家で隣人が気づかないまま病に倒れる、奥深い森のなかで人知れず倒れることが許されないとしたら、世話を受けた多くの人々の暖かい眼差しと手のぬくもり、バッハの音楽を聴きながら眠りにつきたいものだ。ALSに罹ったことは不幸なことだった。だが、S有料老人ホームに入居したことで、健康な身体をもち一人暮らしのときと別な死に場所、死に方をもつことができる。

先日、九六歳のSさんが肺炎で、救急車でSホームから病院に移った。病院で点滴の注射、酸素用のパイプを引き外して、病院の関係者を困らせたとのことだった。社長に懇願しホームに帰ってきた。本人はホームでスタッフの人たちに見守られながら死にたいと言ったという。四日前、夜勤のTさんは、今夜あたり危ないと言っていたのが、今では自分でトイレに行けるまで回復したという。たまたま、昨日、車椅子に乗った彼女に診療所で会った。「親切な皆さんに囲まれて幸せです。」と語っていた。S有料ホームでは、一人暮らしで味合うことができない安らぎの死に場所がある。

先日、美輪明弘がTVで「人生には必ず正と負がある」と言っていた。人生ですべてが正であるはずがないし、すべてが負ともいえない。心に空洞をもちながら見かけは華やかな、心地よい贅沢をして暮らすのが幸せか、肉体的に傷つき蝕まれながら心の平和をもって暮らすのが幸せか判断することが難しい。人がどのような環境、運命で過ごすかは、絶対主が決めたことでしかない。肝要なことは、この絶対主が決めたことを、本人がどのように受け取り解釈するかということ、自分の人生を正が勝っているか、負と考えるかの違い、その人の考ええ方次第で、その人の人生が幸せであるかどうかが決まる。

財産と権力、名声をもち豊かな生活を満喫したとしても、残す財産を憂い、失敗を悔いながら死の床に伏すとしたら、幸せな人生だったといえない。華々しくなく、残す財産もなく慎ましく生きたとしても、自分が生きた人生を愛し、満足し、この世に生を与えてくださった絶対主に感謝できるほど幸せなことはない。人間の幸せは、死ぬときまでもち越されているといってよい。

健全でない肉体、それも、事故に遭い一瞬のうちに今の状態になったのならまだ心の整理の仕方がある。リハビリをして改善できる、治療方法の望みがあれば希望が湧く。せめて現状を維持しているのなら救いを感じる。ALSに罹ったことは、このすべての望みを絶たれて、一週ごとに障害が酷くなっていく気がする。それは、死刑を宣告された因人が独房に収監されているだけでなく、あたかも肉体の肉片を一週毎に切り刻まれながら、十三段の階段を登らされているに似ている。

将来への不安は、障害がさらに重度になり、日常生活が厳しくなることだけでない。古代のギリシャ人は「健全な肉体に、健全な精神が宿る」といった。人間は健全な肉体と精神があって初めて存在の意味がある。肉体は古代のギリシャ人にとって精神を入れる容器である。容器が壊れれば、人間の存在を意味する健全な精神が器から漏れだすことを意味する。恐怖は肉体的な障害による生活上の不便さでなく、むしろ、障害の深まりとともに、今まで踏みとどまっている精神が徐々に蝕まれ、自分がもつプライドとアイデンティティが失われていく怖れにある。

先人たちが創り出した文化資産にふれ、人間の能力の素晴らしさ、偉大さに感動し、華やかさを満喫して過ごす。書斎で数多くの原書に囲まれて「生きること」について着想する。静寂とした禅寺で座禅を組み瞑想して、人生の意味・意義について公案を解く。いずれにも、人が生きることの喜び・素晴らしさを謳歌する立派な考えをまとめることができるだろう。だが、生きることは、そのように陽性で明るく輝かしいことだけでない。

永平寺の開祖道元は「学と行とが窮極において一致しなくては、真の悟りを開くことができず、そのためには行を通して学ばなければならぬ」(「精神分析と仏教」武田専 新潮選書)といい、ひたすら只管打座に打ち込んだ。ALSに罹ったことは、「生きる」ということを、図書館で借りた本のなかから概念や言葉で学ぶのでなく、生身の肌を傷つけ血を流し、身体が蝕まれていくのをとおして、生きることの厳しさ、むごさに直面しながら、根元的な意味を問いかけつづけられている気がする。

私は工業学校の電気科を卒業してT社に入社した。数年間、工場の電気設備の保全業務をしたのち、工場の電気設備の設計と建設工事の現場の業務にたずさわってきた。社内に新たに設立されたエンジニアリング会社に移籍し、T社以外の工場の電気設備設計にも従事する機会をえた。私が入社した頃、一九五三年当時の電気設備は、モーター、電熱器と蛍光灯くらいしかなかった。当時は気中で電気を開閉するスイッチが珍しかった。やがて、リレーが導入されシーケンス制御による自動化技術、各種の計測器が誕生して制御技術がうまれ、生産設備の制御が複雑化、高度化してきた。コンピュータ技術が誕生してからの自動化、制御技術は、より複雑に高度なシステムが構築できるようになり、モノ造りの現場だけでなく、マネージメントを支援する仕組と連携するまで発展するようになった。
生産設備の設計作業にはレピートがない。自動化設備、生産管理システムとなれば、いつも大きな新たな課題を抱えていた。システムが大きくなってくると、モノつくりの技術の問題だけでなく、考え方、思想が重要になってきた。仕事のアプローチの食い違いでよく上司と衝突したものだった。お陰で、偉くなれなかったが、誰よりも本を読んできたつもりだし、絶えず新しい知識と技術を吸収する努力をし、最新の技術、思想を設計に生かしてきた。仕事は苦しいこともあったが、仕事をとおして自己実現ができて楽しかった。海外の工場設備設計の仕事も経験し、私にとってT社は、恵まれたいい会社だった。給料を貰いながらのびのびと人生を楽しませていただいた。

若い頃から漠然と、「生きる」って、何だろうと考えてきた。哲学・心理学・文学書という名の本をそれなりに読んできた。音楽を聴き、名画を鑑賞し生きている感動・素晴らしさを味合ってきた。多くの人たちの生き様を観察してきた。子供を独立させ、退職し、社会的責任を果たして、自分だけのために使える時間をもったとき、私の人生を整理する段階に達したことを知った。

人生の過ごし方として、ヒンズーに「四住期」という考えがある。「学生期」師に教えを乞い服従し人生の過ごし方を学ぶ。「家住期」結婚し一家を構え家族を養い、社会のなかで活動する。「林住期」社会生活と自分の修業とを両立した生活を過ごす。次のステップの準備段階でもある。「遁世期、あるいは遊行期」家族・社会から完全に離れ自分だけの時間をもち、森の中、あるいは乞食をして過ごす。

日本で行われていた「隠居」、現在の「定年」の制度は、ヒンズーがもつ真摯な姿勢が見られないとしても、自分が歩んできた人生を整理し、死の準備を考える契機としてとらえることができる。政治の世界、官庁を退職し退職金を貰い歩く官僚、経済界・企業のなかで老害をみせている人たちほど醜悪なものはないし、社会に害を及ぼすものはない。

定年になり退職したことで収入の道が閉ざされた。サラリーマン時代の肩書きが無意味になった。すべての義務、制約、束縛から解放されることが、なんと清清しいものかと驚いた。自分の意思を曲げて気配りする、企業の立場を前面にだす必要がなくなった。損・得、人の顔色に気遣うことがない、自分を虚飾する必要がない、気分がいちどに大きく、おおらかなになり、開放感を味合うことができた。

定年後、能率と効率、利潤が優先することと別な生き方があることを知った。読書の時間は、仕事上の専門書から解放されて、好みの本を手当たりしだい読むことができた。大衆車2台分のオーデオセットを購入し、社宅で聴けなかった音量を、身体で受け止めながら音楽を聴く感動をもつことができた。農繁期を避ける、オペラシーズン開幕に合わせて、私だけの海外旅行を楽しんだ。

ALSに罹ったことを知ったとき、有機農法による野菜づくりにができることを支えにしてきた。諦めなければならなくなったとき、心を支える堤防が切れたと同じショックを受けた。不安と恐怖をいたずらに理性で無意識層に閉じ込めるのでなく、肉体の障害にあえぐ自己を突き放し客観視することにした。本能のまま苦しみの叫びをあげる私を認識の対象とし、その対極に苦しみを冷ややかに聞き届ける新たな私、認識の主体をつくることで、冷静さを取り戻そうとした。そして、なお心の底から湧きあがってくる不安と恐怖は、生にたいする執着を断ち切る決意をすることで消した。

自動車の運転ができなくなった、車椅子の生活になったのはショックだった。幼児のときに二本足で立つことができ、自分の意志にしたがって歩くことができるようになって以来の自由、自分の主体性、自立性、独立性を失ってしまった。自分の意思だけで本屋、図書館、音楽会に行けない。好きなものを食べに外食することもできない。自分の意思だけで行動できない、介助者が必要になったことは、母親が監視する範囲しか行動できない幼児とおなじ状態に回帰してしまった。

しかし、定年退職まえに働くだけで亡くなった友だちに引き替え、私は人生を十分に楽しんだ。一人の男として人生を満喫し、いわば、ひとつの人生を卒業、転換の時期、第二の人生へ挑戦の時に達したと言えなくもない。絶対主は私の人生の終わりに、私が日頃いう「短い人生、いろいろな経験をしなければ」という言葉を聞き届け、ALSという新たな人生にチャレンジする機会を与えたのかしれない。

絶対主は私に気配りを示している。何度も転倒した。パリでは肩から倒れ頭を打たずにすんだ。畑では耕運機の鋤、農具、室内で窓ガラスの近くで転倒した。何度転倒したか数えられない、病院に運ばれたことも少なくないが、私がもっとも恐れていた脳障害になる転倒を引き起こしていない。

妻の介護が難しくなったとき、妻が特別養護老人ホームに入居できた。独り暮らしが限界になったとき、ケアハウス「おとがわ」に入居できた。ケアハウスで自立の生活が難しくなったぎりぎりになったとき、S有料老人ホームに滑り込むことができた。そして、もっとも幸せなことは、私の願いであった、人間の尊厳を守ってくれるスタッフの皆さんに会えた。絶対主は降りかかる不運を取り除き、私がALSだけに集中して対峙して生きる環境を整えた。絶対主は私がALSによる障害が進行するなかで、どのように生きていくか、何の手助けアドバイスをすることなく沈黙を守り、ひたすら見つめている気がする。

現在六六歳、半年後には六七歳になる。新聞の死亡欄で同世代の人が亡くなった記事が目に付く。同級生の死亡を聞くのが珍しくなくなった。いわば、私にとって、一人の男の人生を歩み終えたと考えていい、新たな人生にチャレンジする機会、言い換えると、今からは「おまけの人生」、新たな人生が始まったと考えたら過去のすべて、幸せを棄てることができる。

「旧約聖書」ヨブ記で次の話がある。ウツの地に潔白で正しく神を恐れ、悪から遠ざかっていたヨブという名の人がいた。サタンが神とヨブがもつ神への誠実の深さを試す賭けをして、彼のすべての持ち物、七人の息子と三人の娘,羊7000頭,らくだ3000頭などを奪った。次にサタンは神といのちにふれない約束をして、ヨブの足の裏から頭の頂まで悪性の腫れ物にした。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、灰のなかにすわっていた。
かゆみと痛みに苦しむヨブを見た彼の妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を固く保つのですか。神を呪って死になさい。」といった。彼は彼女に「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けたのであるから、わざわいをも受けなければならないでないか。」と答えた。

私にとってこのおまけといってよい人生まで、今までのような楽しい、華やかな、格好のよい人生を過ごすなど貪欲すぎる。あるいは、ひとつしかない人生を同じことを繰り返して楽しんでも退屈というものだ。ALSに罹ったお陰で健康に関する多くの本を読んで、身体のメカニヅムの不思議さを知った。宗教書、神秘主義、霊の世界の本を読む機会を得た。科学は未知の世界の薄皮を剥いでいるようなもの、人類が科学により解き明かした外に広大な未知の世界が広がっていることを知った。そして、過去の人生の枠内で決して触れ合うことのなかった心暖まる多くの人たちを知った。いわば、人生のターミナルへの準備の機会を得たとさえいえる。

このおまけといってよい人生を新たな経験として楽しめばよい。ヨブの言葉が理解できなくなったら、ALSが苦しく、耐えられないというのなら、ヨブの妻の忠告を受け入れ実行すればよい。いまさら悔いる歳でもないと考えた。

二〇〇一年一月現在、室内で伝い歩きがやっとできる程度まで歩行力が落ちた。右足、左足をそっと出す。いったんバランスをとり直して次の歩を進める。ときどきふらっとする。椅子から立ち上がる脚力が落ちた。椅子に座布団をくくりつけて高くしてしのいだ。トイレに自力で行けなくなる、ベッドにくくられた生活をする日を覚悟しなければならなくなってきた。

ホームに入所した頃、一般の浴槽で介助を受けながら入浴をしていたが、十一月にはいり器械浴に変わった。二人の女性のまえで、なされるまま裸身を横たえることになった。はじめ、大きな屈辱を感じたものだったが、少しづつ羞恥の感覚が麻痺してきた。ベッドから起きあがれない、着替え、歯磨き、洗面ができない、すべてを他人にゆだねる状態になると、生きていてよいのだろうか、この世に存在価値がないでないかと思う。ベッドに病身を横たえた三浦綾子は「生きつづけるのが私の義務です」と言っていた。彼女は自分の生への執着であるより、彼女の命を支える夫の努力に応えるため生きつづける義務を感じたであろう。私が今よりさらに他人の世話をうけて生きるとなると、三浦綾子とおなじ言葉をいう理由がどこにも見出せない。

左手・腕の機能が全廃しただけでなく、右手が、肩から上にあがらなくなった。指の力がなくなり箸がほとんど使えない。箸は挟むのでなく突き刺す道具にかわった。スプーンで上手にすくえない、持ち上げる力がなくなり、口を食器に近づけてかきこむように食べる。腕が疲れることから、腕の吊り下げ装置を社長に作っていただいた。

食事は部屋まで運んでいただくことになったので、ぶざまさを人に見せることがなくなった。人に見られ不格好、体裁が悪い、恥ずかしいとといっておられない。ただ、人に不愉快な思いをさせたくないと思う。レストランに行くこともなくなり、ロビーでTさん、Kさんと雑談する機会もなくなった。部屋から出るときは、診療所へリハビリに行くか、入浴のためスタッフに連れ出されるときだけ、一日中、部屋に閉じ込められ、ケージに囲まれて餌と水を与えられる鶏と実質的にかわりがなくなった。

ペットボトル500ミリリットル入りが持てず、250ミリリットルが限度になった。薬缶に入れたお茶をカップに注ぐことができない。嚥下動作の障害がでてきたのか、むせて水を上手く流し込めない。痰がでにくい、唾液が口の中に溜まってくる、涙腺が緩くなり感情を抑えるのが難しくなった。舌が萎縮したからか話がスムーズにできない、一呼吸おき話をするようになった。肺活量が減ってきた。

字を書くのが難しい、不格好に名前を書くのがせいぜいになった。指の力がなくなっただけでなく、腕の動き自体が不自由になり、薄い文庫本を持つことがやっと、本を移動することさえ人の手を借りるようになった。食事をする、本を読むなどで腕を動かすとすぐ疲れる。腕の疲れがどうして気力と思考力の倦怠にまでにつながるのか苛立たしい。しばらく休み思い直して活動を再開する。ALSは肉体的な障害だけでなく、精神的な活力まで奪ってきた。

パソコンのキイボードは、数年前から右手の一本指操作に変わっていた。腕の疲れから手のふくらはぎを支点にして操作していたが、数回休まないとワープロの一行が打てなくなった。社長に腕支えの吊り下げ装置を作っていただきキイを打つことができるようになった。指の動き自体が不安定になって誤キイが多くなったが、ギブアップするわけにいかない。
身体が不自由になったことは、自分の意思どおりに行動・動作ができない不便さだけでない。最大の痛手、苦しみは、情報の空間が狭まったことだ。新聞のページをめくれない、本、資料、CDを自分で手に取り選び出せない。事典は無論のこと、辞書を見て調べることさえできない。読書を記録したメモ帳を取り出せない、新たな記録をとることができない。私はいま、私の知能の分身であるすべての情報から見放され、私が思考する視野は、ちっぽけな、減退しつつある脳細胞の世界だけに閉じ込まれてしまった。

まだ一・二年くらい大丈夫であろうと思っていたALSの症状は、一ヵ月後にどのように悪くなるか予測がつかない。確実なことは、末期的なすべての症状が出揃って、決められたステップどおりに、より厳しい症状に落ちて行くことでしかない。手足を動かす運動障害が酷くなる、嚥下障害が厳しくなり固形物を飲み込みにくくなる、やがて肺炎をおこす、窒息するおそれがある。コミュニケーション障害から会話が難しくなる、痰がますます出ににくなり、呼吸が困難になるのも遠くないようだ。呼吸ができないほど苦しいことはないという。

自我を意識しアイデンティティにこだわりをもっているときは、自分を際立てて差別化しようとしていた。ALSの症状が進行する恐怖から逃れるため、プラス思考、ペダンチックな考え方にこだわり、苦しみを無意識の世界に抑圧した。人間が「生きる」とはどういうものかと、自己固有の論理を展開しがむしゃらに自己説得を試みてきた。事態の深刻さを体験するにつれて、アイデンティテイを際立たせ、見栄・虚勢を張り、頭だけの作為で試練を乗り切り解決するように試みてきた。

やがて、意気込めば意気込むほど私自身の実体から離れ、きらびやかな虚像をつくりあげていることを知った。虚像に新たな虚像をつくる、論理に論理を積み重ねていくムダを悟った。「コセコセとした知恵など働かせず、あるがままを受け入れたらよい」という、般若心経の世界に回帰してきた。自我を意識して対極にALSを捉えるのでなく、自我と関わりのあるすべてを切り離すのでなく、結ばれたモノ、繋がりのあるモノとして渾然一体なものと捉えることに気づいた。自己を際だたせ、孤立化するから新たな対立が生まれる。すべてを混沌とした世界に留めておけばよい、混沌とした世界を作為で混乱させることはない、自己の思考をはるかに越えた大きな力、自然を動かす摂理に同期する巨大なエネルギーの流れのなかにいることを感じたらよい。

私は瞑想をしているとき、意識は呼吸だけに注目している。何も考えないなかから日常生活で気づかなかったアイデアが忽然と浮かび上がる。それは修行者が会得する無意識から認識する悟りの境地でなく、フロイトがいう前意識から湧きでてくる。瞑想中はこの浮かび上がった記憶、ハッとするアイデアにこだわらない、あるがままに眺め、追い求めないでいると、やがて静かに消えて、呼吸しか意識しない元の静寂さに戻ってくる。

私はALSを受容したと言いながら、今後、障害が苛酷になるにつれて、何度も現世的な悩み・苦しみをともなったインパルスが到来することだろう。このインパルスを論理で押し潰すでなく、瞑想で自己観察するように、すべての作為を棄ててひたすら観察、傍観していればよい。それは、河面の流れにまかせる笹舟を眺める気持にひとしい。ALSに揺らぐ笹舟、試練の水面に漂う笹舟を、あるがままに眺めればよい。すると、意識による嘆き・悲しみ・苦しみを超越し、無意識に抑圧し累積していた感情が溶解しだし、両者の感性が混ざり合い、私は現実の人生から離脱して、別な混沌とした世界にさまよい込み、溶け込んでしまう気になった。それは、河面に流れる笹舟を俯瞰して眺めている、私の実体が体外離脱し浮遊した世界から眺めているとおなじで、私の過去の全体像が浮かびあがり現在と未来を自然の摂理の大きさのなかのひとつとして眺めているようだ。それは、私を中心とした世界でない、私は自然の営みのなか、宇宙が運行するスケールの大きさのなかに埋没している微細な一片でしかない気がしてきた。   2001/1/E

後記
 昨年はじめ、平静さを保ったと言いながら脳裏の片隅で、障害が進み近い内に寝たっきりになるのでないかと怖れていた。ひとつの目途と考えていた半年が無事にすみ、一年半が経った。右腕・手の機能が落ちた。食事に介助が必要になった。腕があげられず首のかゆみが掻けなくなった。指の動きが更に低下し字が書けない、紙一枚を拾う、本のページをめくるのに苦労する、私にとって最後の砦、慰め、逃げ場所といってよい音楽を聴くこと、CD、テープを交換ができなくなった。遂に椅子から立ち上がる脚力がなくなり、椅子からの移動、トイレに行くのに介助が必要になり、介護スタッフへの依存度がますます増えてきた。それは、最近に顕著に感じる大きく息が吸えない、疲れやすく呼吸数が増えた、痰が出にくい、睡眠が浅くなり寝苦しさに呼応して、ALSの症状が止まることなく進行している事実を教えてくれる。

九五年末、発病を自覚してから七年目が来た。「発症してから三・四年で亡くなる」という報告が間違い、私は例外との思いがしないでもないが、障害のすべてが末期の症状に近づいている現実の様を見ると、たとえ平均から外れていても、統計が示す正規分布の枠内に入っていることに変わりない。人は諦観、居直りというか知れない。だが、本人は意識で悩みを抑えつけるのでない、現実の苛酷さを超越しあるがままにいる、心の平穏さ、静寂な水辺に漂う落ち着きを保っている気がする。

私にとっては、キユーブラー・ロスが言った「病を自分のものとして受容する段階」を越えて、私なりの理解の仕方で、人が生きる意味を悟りつつある気がする。人間は、宇宙の創造主が与えたといっていい運命から逃れることはできない。人ができることは、与えられた運命、あるいは、加えられた試練を素直に受け入れるなかで、ささやかな活路を見出すことでしかない。できないことはできるように努力したらいい、できないとわかったら断念したらいい。自分でできないことは、助けを呼んだらいい、助けの手が届かないときはあっさり諦めたらいい。無理することはない、頑張ることはない、我慢することはない、「あるがままに生きたらいい」という意味が頭でない、肌をとおしてわかってきた。僧侶作家である玄侑宗久は「ないがままに生きたらいい」と言っていた。

残された時間を「あるがまま、あるいは、ないがまま生きる」、悟りをひらいたと広言しながらひとつの苦しみがある。それは、私の知能の分身である情報から見放され、私が思考する視野は、ちっぽけな、減退しつつある脳細胞の世界だけに閉じ込まれてしまった。そして、ひとつの心残りがある。神が私に一つだけ私の願いを叶えてくれるとしたら、愛する人を、ALSで朽ち果てだらりと垂れ下がった腕でなく、逞しい筋肉をもった両の腕で、力いっぱい抱き締めてあげたい。一度だけでいい、彼女の愛の大きさに応えたいと思う。
おわり
2002/8/13 12/29改訂 2003/3/14改訂



あとがき


> 風の又三郎
> 山田 悟
> 宮沢賢治の物語で「風の又三郎」がある。話しのストーリーはすっかり忘れたが、多
> 分、山村の小学校に一人の転校生が来て新風を巻き起こした。だがある日、つむじ風
> のように消え去った、という話であった。

> 私の病気はALS、筋肉が溶けるようになくなってすべての運動機能、言語機能を失
> う。やがて呼吸困難、或いは誤飲により肺炎をおこし、3・4年で死亡するという。
> 不思議なことに私は発病以来7年目になる。だが、障害が進行している様子をみる
> と、正規分布の平均を外れただけで枠内にいることに変わりない。

> 自分で食事ができない、着替えができない、椅子から立ち上がることができない、し
> たがってトイレに自分で行けない。自分の身体でも痒いところに手が届かない、生活
> のすべて、生きることのすべては、介護者の手に委ねられることになった。残念なこ
> とは字が書けない、資料を取り出して調べられない、本を読むのが難しい、好きな音
> 楽のソフトもかけられない、スムーズに話をすることさえ難しくなった。

> 最近、人間としてすべての能動的な機能が失われたと思われる私に、たった一つでき
> ることがあることに気付いた。それは私の生き様を、私と触れ合う人たちに見せるこ
> と、生きている楽しさ、喜び、素晴らしさを見せることである。

> だが、私から我慢強さ、忍耐強さ、立派さを学ぼうとしたら間違いだ。私は若くな
> い。果たすことができない夢をもつほど馬鹿なことはない、できないことに努力する
> ほど無駄なことはない。

> 人間は絶対主から与えられた運命から逃げられない。だったら素直に運命を受け入れ
> ればいい。人ができることは、与えられた運命を素直に受け入れるなかで、ささやか
> な活路を見出すことでしかない。できないことはできるように努力したらいい、でき
> ないとわかったらあっさり諦めたらいい。無理することはない、頑張ることはない、
> 我慢することはない、あるがままに生きたらいい。

> そして、私から人が生きる明るさ、すがすがしさ、天真爛漫さだけを知ろうとしたら
> 間違いだ。私はどんな身体になったとしても、憐れみは受けたくない。どんな介護を
> 受けようと恩の押し売りは受けたくない。どんな状態になったとしても媚び、屁面笑
> いだけはしたくない。モラエスは世話する女が大小便の始末に一回いくらと請求した
> ため、最後は糞尿にまみれ自殺したという。私は彼の心意気を学びたい。

> いま、私に残された時間は、私が歩んだ人生を整理するときと思っている。68年の
> 間に培ってきた生き方、「自分らしさ」の集大成をするときと思っている。そして、
> 五体不満足な私がたった一つできることは、そんな私の生き様を私と触れ合う人にぶ
> つけることである。

> やがて私は、風の又三郎のように消えるときが来る。つむじ風が去った後で、私が触
> れ合った人たちの心の中に、人が生きる意味を探り、人間の尊厳について考えていた
> 一人の男、それなりに精一杯生きようとしていた一人の男の余韻が少しばかり残ると
> いい。



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stryamada@ybb.ne.jp





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